丹波国南東部の中心として亀山藩も成立し、京都の背後に位置する要地であることから譜代大名による藩主交替が頻繁であったが、後半は松平氏の支配が100年余り続いて維新を迎え、その折に伊勢の亀山と区別するために亀岡と改称され、現在に至っている。
城下町の面影は特に城の南側に濃く残る。この地区は商業地であり、また山陰道も通り交通の要所であった。伝統的な町名も多く残っている。紺屋町から本町にかけては構えの大きな町家が多く残り最も町並らしい所だ。平入りと妻入りがほぼ半々の割合で見られる中で、ここでは妻入りの見応えのある町並景観も残っていた。
塩屋町は塩屋、または庄屋があったことから訛ったという説。旅籠町は山陰道沿いで宿場が設けられ、本陣も存在していた。それらの地区は碁盤の目状の通りで区切られ、漆喰で塗込められた平入りの町家が散見された。また街道東側に位置する西竪町・東竪町界隈にも規模こそ小さいものの妻入りの町家がある程度まとまって見られる。
亀岡市は京都市内からも30分ほどの位置であるが、蔭に隠れてこの町を目的として訪ねる客は少ない。それが観光地化していない落着いた家並が今に残っている結果につながっているといえよう。しかしこの地区の街路はカラー舗装され、町々の由来を記した案内板、ガス灯風の街灯など、外来者の目を意識した色が濃く感じられる。また、京阪神郊外地域に含まれるため、多くでは新しい住宅との共存となっている。
町の一角では秋の例祭に山鉾が立ち、伝統的な活気の感じられる町である。
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