八島の郷愁風景

山口県上関町<農村集落> 地図
 町並度 6 非俗化度 10
−出稼ぎ漁業やハワイへの移住により富を築いた証が家々に見られる県最南端の離島−
 




 八島は県域の最南端に位置し、上関港から船で30分弱で到達する離島である。島は瓢箪を変形させたような形をしており、現在集落は太い部分の北西岸の一部にのみ見られる。かつては北端付近の砂洲にも集落があり古浦と呼ばれていたが、現在は無住となっている。
 古くから漁業は行われていたが、近海に好漁場があるにも関わらず専業の漁家はなく、天保13(1842)年の記録では家数164軒のうち158軒もが農家で、これは漁業権が与えられなかったことがその理由である。農産物は麦、粟・稗などの雑穀とともに意外にも米29石余が計上されている。牛などの牧畜も盛んに行われてきた。
 出稼ぎで漁業を行う者も多かった。天保年間頃には年間30名ほどが出稼ぎに赴き、長門仙崎、肥前五島の鯨組に出かけるものもあった。また明治以降はハワイへの移民も盛んに行われた。
海側から集落を遠望する 島の斜面に家々が立地している






見事な石積や入母屋屋根の見られる集落が展開する
 八島の集落的な特徴として、家々が海岸線ではなく斜面に立地しているところがまず挙げられる。その点からも漁村ではなく農業を主体としてきたことがわかる。建物の姿も漁家とは全く異なるもので、しかも入母屋屋根などを持つ立派な家屋が多い。斜面は石垣で克服され宅地が整備されているが、見事な石積で先人の苦労が知られる。移民たちは現地で稼いだ金で故郷の島に立派な建てることを夢見てきたのだろう。土蔵を構えている姿こそ見かけなかったが、母屋と農機具等を収納する納屋風の建物を持つ形が多く、中には立派な扉を従えた門を持つ御宅もあった。集落の中を歩いていると小さな島に居るとは思えない感触になる。
 集落を見下ろす箇所に2箇所寺があり、訪ねた日はそのうちのひとつで年1度の法要が行われていた。集落や寺の構えは立派なものだったが、探訪中に住民を見たのはほぼその法要に集まった人たちのみであった。明治期には700人ほどの人口があったが、平成27年現在では25人となっており、それもこの10年ほどで半減している。果たして何時まで集落としての命脈が保たれるか。その時はそれほど遠くないのではと思われる。
 集落風景として優れたものがあり、個々の建物も保存活用の価値は十分にある。しかし町に財政的なゆとりはないだろうし、国から保存地区として選定されることもなかろう。ここに掲載した風景も失われてしまうことになるのか。せめて集落としての体裁が保たれる間に訪ね、記録しておきたいものだ。











訪問日:2018.10.07 TOP 町並INDEX