蒲生の郷愁風景

鹿児島県蒲生町<武家町> 地図
 
町並度 5 非俗化度 9 −石垣・生垣が美しい麓集落−






蒲生の町並 八幡神社の大楠



 



蒲生の町並  八幡馬場沿いに保存されている御仮屋門(地頭職を勤めていた屋敷の門)






蒲生の町並 蒲生の町並
 

 蒲生町は鹿児島湾に程近い大隅地方最西端に存在している。藩政期の薩摩軍が、秀吉・信長の陣営の進出により大隅・日向を含めた三国に押しやられた後、薩摩側は各地に麓集落を築いて自衛していた。この蒲生もその一つである。
 中世は蒲生氏の支配する地であったが、後に島津氏の侵攻を受け幕末に至っている。島津氏は、関ヶ原の合戦に敗れた後古城蒲生城を修築し、その麓に武家地を配して万一に備えている。郷士(外城を受持つ薩摩軍の武士)の数は年々増加し、寛永13(1636)年人口3,486人のうち315人、その後明和7(1770)年1,415人、嘉永4(1851)年には2,482人となっている。麓地区は整然と区画され、郷士はこの地区に固まって起居した。
 この町を有名にしているものに日本一の大楠のある八幡神社がある。その門前からかつての山城・蒲生城までが麓のメインストリートで八幡馬場と呼ばれ、その両側に武家街が広がっていた。その名残は至る所に見られる。特に西側では、石積と生垣に縁取られた屋敷型の家々が連なり、庭園のような整然とした美しさが残っていた。石積は出水や入来などで見られる自然石の丸石を積上げたものも見られるが、多くは石切場から切出されたブロックを精緻に積んだものだ。しかも空積がほとんどである。機械的・直線的なイメージの強い町並風景となっている一方で、それらは歴史を経て無機質さを感じさせない。自然の一部となっているような雰囲気が感じられる。
 内部の建物はほとんど更新されているものの、昔ながらの石積を生かし、町割が良く守られている姿は貴重である。通りには塵一つ落ちていない。ここに住む方の誇りの高さを感じた。


訪問日:2004.05.02 TOP 町並INDEX