神辺の郷愁風景

広島県神辺町<宿場町> 地図 <福山市>
 町並度 6 非俗化度 6  −本陣も残る山陽道の宿場町−


旧神辺宿本陣(左)と付近の町並


 神辺は山陽道に沿い、備後国最東端の宿駅が置かれていた町で、中世には神辺城が置かれその城下町が町の基盤として整えられていた。行程の日取り的なものもあったのだろうか、備前三石宿から尾道宿までの間では参勤交代の大名の宿泊率が最も高かったといわれる。多くの大名の宿となった本陣は当時2軒もあり、その中で西本陣と呼ばれた菅波家が現在でもその遺構を残し、厳かな長屋門が街道に面していた。
 「中国行程記」では「神辺村ハ弐ヶ村二別レテ 高札場ヨリ南ノ方ハ川南分ト云ウ 二タ庄屋有リ 問屋モ弐ヶ所有リ 上リノ時ハ川南分ノ問屋ヨリ人馬ヲ出シ 下リノ時ハ川北分ノ問屋ヨリ人馬ヲ出ス」と往時の町の様子を記している。
 現在でもその辺りを歩くと、直角に折れ曲る枡形が3箇所もあり遠見遮断を図った宿場町らしい街路の形がはっきりと残っている。
 福山方面から国道313号線を神辺駅前付近で北に別れると、古い町並が姿を現してくる。旧川南地区で、北端に高札場があったという。この南北の通りは車の通行が多く新しい商店や住宅への更新率が高いが、所々に挟まる町家は1階に格子、2階に海鼠壁と虫籠窓がよく残されていた。
 一度目の枡形より東は川北町である。先程の本陣菅波家をはじめその周辺に伝統的な町家が残る。さらに枡形を曲り東側には江戸末期の儒学者の開いた廉塾も残り、文化の発信地としても重要な意味合いを持っていた町であることに気がつく。
 明治以降も旧街道沿いは町の中心地としての役割が残り、また隣町の新市とならんで「備後絣」として知られていた織物業が盛んであった。しかし近年になって中心街が郊外に移転し、公共機関などもここを離れて、かつて賑わいを呈していた宿場街は今ではわずかに地元の方々の姿が散見されるに過ぎなくなってしまった。
 古い町並として連続した景観、さらに旧本陣や廉塾などの遺構がありながらそれらが外来者に対して十分アピールするものになっていない。旧本陣は同じ山陽筋にある矢掛本陣にも匹敵するほどの価値の高いものであるし、これらを核にこの町の歴史を語るものとして十分発信できるはずである。









訪問日:2002.01.13
(2014.04.27最終取材)
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