笠島の郷愁風景

香川県丸亀市<城下町・港町> 地図
 
町並度 7 非俗化度 5  −水軍の拠点から廻船業の町へ発展した−




 近くに瀬戸大橋が見えます。新旧対称的な眺めです。  廻船問屋の家、旧小栗邸。




笠島の昼下がりは静寂が支配していました。 虫籠窓の旧家。一階の格子も付け替えられて
いるものが多いのですが、サッシ等に更新され
ているものは全くありません。




 左上が「持送り」で、この町では目立つ意匠が
好まれたようです。


真木家付近の町並
 

 
 
 塩飽本島は水軍の島として知られている。
 その本拠地であった島の北東部、笠島地区は中世より集落の東にある城山に砦を築き、城下町を形成していた。その後港町としても長らく発展を続けた面影が家並に色濃く残っており、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。島の集落としては第一号であった。
 瀬戸内地域では、因島を中心とした村上水軍と並び、塩飽水軍の名が高く、海流が沸き立つように「潮湧く」風情が島の名の由来と言われているように、複雑に浮かんだ島々、そして城山によって外部から見えにくい位置にあるということで、本拠地としては好都合であった。
 現在残る町割はこの時代にはほぼ完成していたと言われている。しかし城下町とはいえ、武家屋敷等は当初からほとんど存在していなかったようで、現存している家々も、町家形式の商家のたたずまいである。
 豊富秀吉は、天正18年(1590)、天下統一への数々の戦いに味方として参戦した塩飽水軍の功績に対し、領地を複数の人々に共有させる「人名」制度を与えた。「名」とは領地を意味し、大名とは一万石以上の領有者を指すのだが、この人名制はわずか1250石を650人もの船方に分配するというものであった。しかしそれにより自治権が与えられた塩飽では、年寄職の中で3名が選ばれ交替で町外れの「勤番所」で政治を行った。その遺構は今でも残り、貴重な文化遺産となっている。地元人が共有して自治を行っていくということで、「人名」という呼び方をしたのだろう。
 人名の人々は所領を与えられた代りに軍役として幕府の御用船に乗込み、戦があれば船をもって参戦し、物資の輸送や長崎奉行の送迎などを行った。西回り航路開設後、人名たちは廻船業に従事し、町には問屋が建ち並んだ。今残っている町並はそれ以降のものある。四辻は直行させずお互いを違わせ、一本道でもカーブをつけて遠見遮断をはかった城下の町割に、切妻の町家が並ぶ特徴のある景観が残っている。
 集落は隈なく歩いても30分とはかからぬほど小さいものだが、町家の密度は濃く、何度も繰り返し、ゆったりとした歩みでめぐってみたくなる魅力がある。昔ながらの本瓦葺きも多く残っており、多くは中二階形式で江戸期の面影を残しており、虫籠窓を纏う。また各家で、軒を持上げる「持送り」の意匠を競った様子が伺え、その多彩を観察するのも楽しい。
 代表的な旧家に「まち並保存センター」として公開されている真木家がある。年寄を務めた家で、座敷から直接入れる内蔵、外蔵、専用の井戸、中庭と離室を持つ豪商で、老夫婦が住まわれ訪問客の案内をしていた。私が訪ねたとき、ご主人が食事中で丁度奥さんしか居られず、その後私が町並の撮影をしていると、ご主人がご丁寧にも私を探して来られ、改めて説明をしていただいた。ここはそのような小さな、そして温情溢れる町であった。しかし実はこの町の約半数は無住であり、盆正月だけ帰省されてその時はかつての活気が見られるという。確かに町中を歩いても、物音すら聞こえず、人の姿を見かけることすら少なかった。丸亀市は、重伝建選定後100軒の民家を国等の補助を得て修復し、その費用は補助金を含め約7億円に及んでいるという。確かに更新された町並は映画のセットのようである。しかし、生活が息づいていてこそ町並である。城下町、そして港町として賑わった面影は家々だけが物語り、すでに過去のものになっているようだ。
 


訪問日:2003.02.02 TOP 町並INDEX