勝山の郷愁風景

岡山県勝山町<城下町・宿場町> 地図 (真庭市)
 
町並度 6 非俗化度 4  −水運の拠点でもあった美作の城下町−
  
   




勝山の町並は古いというよりこざっぱりした端正な印象でした。

蔵の扉内側の意匠が凝っています。

武家屋敷の旧渡辺家


 津山から西へ30km、勝山町は真庭盆地の西部に位置する美作国西端の町である。町の中心を旭川が流れており、その左岸には、城下町に端を発する古い町並が、今でも当時の姿を残し岡山県の町並保存地区となっている。
 中世の勝山は西美作の軍事拠点であった。戦国期には山陰の尼子氏・安芸の毛利氏・備前の宇喜多氏などが高田城の争奪戦を繰り広げたところである。高田城は三浦氏によって14世紀後半頃の築城とされ、市街地の北の如意山に本丸と二の丸、勝山に出丸が設けられていた。度重なる諸氏の攻めによって落城すること数回を数え、永禄12(1569)年の毛利・宇喜多連合軍による攻めに屈し、三浦氏は滅亡の憂目に遭っている。その後宇喜多氏、小早川氏などの支配を経て、再び先代三浦氏の流れを汲む三河国西尾の三浦家がこの地に所替えになり、城地取立てを命じられて入部して勝山藩を形成し、再び三浦氏の城下町として本格的な繁栄をみた。
 城山の下には播磨と出雲を結ぶ出雲街道も通り、人の往来も頻繁である利点から各種商業も発展した。そしてその発展をさらに後押ししたのが、旭川の川運だ。現在でも川岸に船着場の名残である石垣組が残っているように、岡山城下への物資はここで高瀬船に積替えられ、岡山までの16里(64キロ)を1週間で、近隣の鉄や木炭を、米と塩などの生活必需品と交換し往復していた。これは鉄道が開通する昭和初期まで続いていたといわれる。
 また出雲街道の宿駅としての役割も併せ持つようになり、美作西部の政治・商業・交通の枢要として繁栄を極めていたのである。
 城下町を特徴付ける武家屋敷などの遺構はほとんど残っていない。街道東側の小高い所に開ける旦地区は武家屋敷街であったところである。今はほとんど住宅に変わっているが唯一残った旧渡辺邸が一般公開されている。その東側は中級武士街で、当時さながらの細い小路が錯綜していたが、それらしい建物はほとんど残っていなかった。
 一方旭川沿いに連なる家々は現在でも古い町並を形成している。多くは白漆喰を施しているため、白壁の町といわれる。資料館をはじめ訪問者を迎え入れる施設も小規模ながら数軒あり、少し俗化しているが、目に余るほどではなく落着いた散策が味わえる。街路の山側には16世紀に農民が苦心して開削したという水路が、或る所では勢いのある流れの音を通りに響かせながら、また他の箇所では旧家の庭先、または邸の下に潜りながら続いている。滔々と、という表現そのままの水のある豊かな風景である。 
 これ以上外来者に眼を向けると観光地となってしまう趣があり、ほどほどにして頂きたいところだが、今のところはバランスが崩されておらず、好感が持てる明るい雰囲気の町並であった。

出雲街道沿いの町並 

※後半の2枚は2003年8月撮影、他は2001年11月に撮影したものです。

訪問日:2001.11.04
(2003.08.03再取材)
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