薄衣の郷愁風景

岩手県川崎村<商業町・川港町> 地図  <一関市>
町並度 4 非俗化度 8  -北上川の川港として発展した-


 
 



 


 
 堤防上から見る北上川と本町の町並
 

 一関市街地から東へ10kmほどにある薄衣地区。北上川が東流から南流に変わる位置にあり、支流千厩川・砂鉄川が付近で合流している。
 北上川水運は、盛岡から黒沢尻(現北上市)までは小型船で、そこから350俵ほどを積める大型の船に積みかえ河口の石巻に運ばれていた。薄衣は川を上下する貨物を検査する検断、荷の積降しを指揮する艜肝煎が置かれ、また支流域から持込まれる米などを収納した藩倉「薄衣御蔵」も置かれており、舟運の一大拠点として重要な位置を占めていた。(艜=内水を航行する和船の一種 ひらた船)
 集落としての歴史は古く15世紀前半の永享期には形成されていたといわれる。川港の発達によって次第に中心は川沿いに移り、正徳5(1715)年大規模な町場御普請により本町が造られた。川に近くなったことで問題は洪水対策で、盛土を行うなどしたが享保9(1724)年には町のほぼ全域が押し流される被害に遭った。
 商工業も発達し、文政7(1824)年の記録では大工5・木挽5・桶結5・鍛冶3・染師3・清酒造3・紙漉15などとある。明治に入ると製糸業が興り、33年には県下初の蒸気窯による製糸工場が創立した。昭和初期にかけて発展し、最盛期には村の全農家の半数以上が製糸業に従事した。
 水運は明治23年に後の東北本線となる日本鉄道が一ノ関方面に開通するまでが隆盛期であった。殊に蒸気船が北上川に就航すると、薄衣は「東山の横浜港」とも称されるほどであった。しかしその後も、北上川本流に架橋されたのは昭和8年と遅かったことから渡し船で物資のやり取りが行われており、川港としての役割は細々ながら続いていたと考えられる。
 付近を訪ねると最も賑わっているのは道の駅がある辺りだが、かつての川港町はその500mほど西側、現在も川に向って街路が伸びているさまが判る。堤防上から見ると、小高いところに寺院、街路に沿って商店や家屋と、計画的に配置された様子がわかる。元旅館と思われる奥行の深い建物もあった。所々更地となったり、新しい建物に更新されているのはやむを得ないところだろう。
 
振り返るとすぐ南を北上川が流れ、川幅一杯に悠然と流れ下る姿は大河というにふさわしい情景であった。
 



 
川から少し離れた所には広大な敷地を持つ邸宅も見られた  
   

訪問日:2022.07.17 TOP 町並INDEX