青海島・通の郷愁風景

山口県長門市<漁村> 地図
 町並度 5 非俗化度 8 −捕鯨漁業の一大基地であった−
 



庄屋を勤めていた網元の家・早川家住宅(国重文)  路地は漁師町らしい細さで、狭い平地に軒を接しています。




 島の東端近くのくびれた位置、外海側との間の小高い部分にも密集した家屋が連なっています。




早川家付近の町並
 

 長門市の北に浮ぶ青海島は観光の島だ。外海に面する北岸は北長門国定公園として断崖が荒波に揉まれる絶景の地、南側は一転穏やかな漁村風景が展開している。夏蜜柑の源樹などが見られるのもこの地方らしい。
 通(かよい)集落は、この青海島の東端にある島で最も大きな集落で、美しい漁村風景を残している。
 室町期にも名が見えるほどの古い集落で、江戸期には萩藩の蔵入地となっていた。通浦と呼ばれ、元文5(1740)年の記録では200隻近くの漁船の多くは鯨船か、捕鯨に従事するものであり、村上げて捕鯨業に携わっていたことがわかる。商人も存在していて萩城下などへの行商、さらに上方に干鰯を積荷したりして生計をたてていたという。
 通浦鯨組と呼ばれた捕鯨組織は藩の厚い保護のもと一時期の大繁栄をみた。鯨一頭取れれば、婦人や子供を含んだ住民一人当たり二百匁づつ分配されていたという。「町内赤肉」とよばれて住民は喜んでいたという。しかし漁民には金銭的分け前が全く無かったため、安政期頃は総年寄を恨み一揆の気配すら兆していたという。
 鯨漁業の華やかさを象徴しているのが網元の家・早川家だ。漁家として国重文に指定されている珍しい例で、庄屋を務めていた。漆喰に塗り回された外観は商家を思わせ、内部は通り土間、二階の隠し部屋に通じる箱階段などもそのままに残っていて、漁家というより商家というべき豪華な雰囲気を残していた。
 集落は内海側の穏やかな湾に沿って弧を描きつつ連なる。島の東端に位置しており小高い鞍部を越えて一部は外海側に続いていて、そこにも小さな船溜まりがあった。繁栄した時代に狭い平地に競うように家々が乱立したからか、細い路地が無秩序に走り、家々は軒を接し合っている。
 この集落には全国的にも珍しい鯨の墓がある。通浦鯨組は観音堂を建立して捕獲鯨の回向を行い、元禄5年に建てられたという。現在も集落背後の小高い所に残り、鯨の胎児が無数に葬られているのだそうだ。
 近年では鯨を離れ、近隣から五島列島、東シナ海方面へ出漁を続けているが、捕鯨業を基盤にした家並はどこかいにしえの華美な時代の残像があるように、所々に構えの大きい屋敷型の家も見受けられた。
 
 



訪問日:2004.09.20 TOP 町並INDEX