紀伊田辺の郷愁風景

和歌山県田辺市<城下町・港町> 地図
 
町並度 3 非俗化度 8 −紀伊半島南部の中心地−


 田辺市は和歌山県の南部、田辺湾を介し太平洋に面する地方都市である。いわゆる紀南地区の中心的都市で行政機関が集中する。その基盤は中世の城下町に由来するという歴史深いところだ。
中屋敷町の町並




中屋敷町の町並 今福町の町並




今福町の町並 湊の町並


 田辺の城下町は16世紀末にはその原型が整えられていたといわれる。関ヶ原の役後に田辺に入ってきた浅野氏は現在の市街西側を流れる会津川の河口部分に城を築き本格的に城下町を造成・経営した。城に近い砂丘地帯に武家地を配し、周囲の低平地に町人地を置き、町外れに寺院を置いて防御した。
 元和3(1617)の一国一城令により廃城となったが、和歌山城主であった徳川頼宣の家老であった安藤氏が田辺に入り引続き政務を行っている。浅野氏の都市計画を引継ぐ形で城地の周りに二重の濠を巡らすなど、その防御体制を固めている。
 田辺は紀州藩内で和歌山城下以南で初めて外海に面する港ということもあり、中世には水軍の拠点ともなっていた。港湾として重要な地位を占め和歌山城下をはじめ大坂、徳島や備前などとを結ぶ海運が開かれ特産の木炭などを搬出していた。これは田辺炭と称され江戸市中でも珍重されたのだという。
 また陸上交通の面でも熊野街道の要衝となり、熊野詣でを終えた旅人が休泊するところとして大きく賑った。
 政治経済そして交通全ての点で紀伊半島南部の拠点として揺るぎないものをこの田辺が担っていた。
 但し町並に歴史の重みを求めることは難しい状況だ。かつて城のあった河口付近には屋敷と付く地名が残り、武家地であっただろうことがわかるがその遺構は全くない。その周囲の町人地であったとされる地区では、細い路地が無秩序に巡る城下町独特の町割が残るものの、往時を彷彿とさせるような町家建築は残っていなかった。一部に塀を巡らせた邸宅や散在する切妻の建物が、そのわずかな残影を留めるに過ぎない。
 駅に近いあたりに繁華街が開けており、その周囲に昭和レトロ的な商店・飲食店の連なる地区があり、そういう眼で散策すれば興味深い町歩きが出来る。


湊の町並

訪問日:2009.12.21 TOP 町並INDEX