城崎の郷愁風景

兵庫県城崎町<温泉町> 地図
 
町並度 6 非俗化度 2 −三階建の旅館が林立する温泉街−




木造三階建の温泉旅館が林立する城崎の町並


駅に向う通りはやや新しい装いになりながらも三階建の形式を保っている 柳並木と古い旅館の取り合わせも城崎独特のものである


 城崎は関西を代表する温泉地の一つで、京阪神から適度な距離があることから一泊または日帰りの団体客・個人客の訪れが多く、温泉街は連休や週末には湯めぐりの雑踏とも言ってよい風景が展開する。それはこの温泉場が外湯中心の歴史を今も取っていることによるところが大きく、七つの外湯めぐりとして知られ、いずれも古い歴史を持つ共同浴場で伝統的な外観を示している。
 但馬を貫流する円山川の下流域にあり、その支流沿いに大規模に温泉街が展開している。温泉の伝承は古く、7世紀の頃に1羽の鴻(コウノトリ)が湯治していたのを発見、この出湯を鴻湯と命名したとの言い伝え、また8世紀前半、道智上人が病人救済のために曼陀羅修法を行い、その結果温泉を掘り当てた(曼陀羅湯)との伝承がある。いずれも共同浴場にその名を留めているものである。
 江戸時代に入ると京大坂を中心に湯治客が急増し、文化人の来訪も多く著名な温泉地として高い知名度を誇った。当時の城崎温泉は湯島村と呼ばれ、それこそ温泉一本を生業としており、代官所も置かれ幕末頃になると宿屋の組合が結成され、宿屋は代官所に金を納付しその許可を受けて営業する形を取っていた。その頃は現在のような観光目的の客は少なく、多くは病気療養のための湯治客が多くを占めていたという。
 国鉄山陰本線が明治後期に京都とを結び、この頃になると湯治客・観光客が大挙して城崎を訪れるようになったが、大正14年に発生した丹後地震により甚大な被害を受け、温泉街の建物はほぼ壊滅している。現在見られる宿屋群は古いものでもそれ以降に建設されたものである。
 それに呼応して、大正末期から昭和初期を思わせる建物が町を歩くと眼につく。特に木造3階の旅館、洋風の外観を持つ渋いいでたちの建物などが多い。しかし全体的にはやや観光地らしい着飾った色が眼につくのが気になるところである。しかし、これほどの有名温泉地でビル旅館がほとんど存在しないというのは稀有といってもいいだろう。
 温泉情緒を高めているのが川沿いの柳並木であろう。浴衣姿の外湯めぐりの客が並木と伝統的な温泉旅館を前に出歩いている姿は、なんともいえぬ独特の風情を感じさせるものである。
 


訪問日:2012.04.30 TOP 町並INDEX