吉舎の郷愁風景

広島県吉舎町<街道集落・商業町> 地図 <三次市>
 町並度 6 非俗化度 8  −銀の道に沿って開けた商業の町−


 県の中央やや北東寄り、三次盆地の外れに吉舎町はある。町名の由来は当地の古代の地名、皇后の所領を指す私部(きさいべ)に由来する説、鎌倉時代に後鳥羽上皇が隠岐に遠流される途中に、この地を通り「吉(よ)き舎(やど)りかな」といわれたという説である。市街地のマンホールの蓋などにもこの文句が刻印されている。いずれにせよ歴史的には相当にさかのぼる町である。 
 古市と七日市を結ぶ馬洗川に架る巴橋。左手は福六酒造の蔵、右は旧吉舎郵便局の建物。一本松が風情を際立たせています。




七日市の町並 七日市の町並




 二階正面が全面格子窓の重厚な旧家。 土壁に囲まれた路地も残っています。


 所々に赤瓦の家も混じる吉舎の家並(尾崎山公園より)。石見地方と結びつきの深かったことを示しているようです。
 

 中世に至ると、吉舎は次第に街道集落としての重要な役割を占めるようになる。尾道より高野山領であった太田荘(現甲山町)を経て三次に通じるルートの中で、平野部への玄関口である吉舎は交通の枢要で、物資の集うところとなった。自然発生的に馬洗川の西岸に市が立った。その後南寄りの東岸部にもかつての古市に対し七日市・四日市という市が発達した。
 江戸期に入ると、街道は石見銀山(島根県大田市)と瀬戸内を結ぶ石見街道、通称銀山街道の沿道で、吉舎は後になって備中笠岡へ向けて開かれた新しい街道との分岐点となり、宿駅となった。銀の輸送部隊は相当なもので、約400人、300匹の馬をもって輸送されていた。その際この吉舎で昼休みを取るのを例とし、宿泊することもあったという。一方、瀬戸内から逆に北に向う荷は塩で、「塩の道」とも言われた。
 伝統的な家並は七日市地区を中心に見られる。現存する建物はおそらく明治以降のものが多いように見受けられるが、小規模ながら袖卯建を両端に構えた旧家、洋館風の建物も幾つか見られる。また馬洗川に架る巴橋南詰には造り酒屋福六酒造の白壁の酒蔵がある。川沿いの一本松と取り合わせたこの景観は吉舎のシンボルのようだ。
 観光客はおろか散策する外部の者もほとんど無く、町並を案内する看板や標識も一切ない。町の西側にある小高い丘にある尾崎山公園に上ると、街道に沿って集落が発達した様子が良くわかり、石見との繋がりを示す赤瓦の民家も見られた。
 

※★印の画像は2002年12月、その他は2004年12月に撮影したものです。

訪問日:2002.12.01
2004.12再取材
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