木次の郷愁風景

島根県木次町【商業町】 地図 <雲南市>
 
町並度 5 非俗化度 9 −和紙と鉄製品を土台に地域の中心を担った町−






木次(旧新町)の町並  木次(旧三日市)の町並


木次(旧八日市)の町並 木次(旧三日市)の旅館


 宍道湖に注ぐ斐伊川中流域に開ける木次町。俗に雲南(出雲地方南部の意)と呼ばれる地域の中心として行政機関も集中する。
 しかしながら町の西側を流れ下るこの斐伊川は、もとは直接日本海に注いでいた。中世から江戸初期にかけてこの川は頻繁に氾濫し、木次の市街地もそのたびに被害を受けた。それは川裏の低地に町が開ける地形的なものの他に、その頃隆盛を極めていた和鉄産業による山の切崩しにより、大量の土砂が流入して川底が嵩上げされたことも大きな要因だったようである。製鉄には大量の砂鉄を要し、それが豊富に含まれる中国山地の山々が崩され、土砂を水流にかけて砂鉄を洗い出し、泥水はそのまま河川に垂れ流しにした。
 現在では考えられないような公害で、全てはそのためとは言い切れないだろうが寛永16(1639)年の洪水で河口が突然宍道湖に切り替わってしまった。現在でも木次の町に対してかなり高い堤防が築かれ、川の流れも高い位置にある印象を受ける。
 この木次が地域の中心であったことは江戸の昔から変り無い。物資の集散の他自らも産業を発展させ、特に和紙と千歯(脱穀器)が有名だった。紙は江戸の初め頃から市が興っていた記録があり、出雲国一の繁栄を見た。一方で伯耆倉吉より導入された千歯の技術は当地で改良が加えられ、木次千歯の名で各地に売り出された。これは明治以降も発展しながら続けられ、町内に80名をくだらない鍛冶職人もあったという。それはこの付近も鉄穴と称される砂鉄の産地があり、この木次を含む大原郡で9箇所創業していたことも寄与していたのだろう。
 この二大産業と斐伊川運を得て商業町が確立し、商人は山陽地方はもとより西は九州、東は新潟まで販路を広げ活躍した。その後現在の木次線にあたる簸上鉄道の終点がここにしばらく設置されることになり、雲南地区の全ての物資はここに集結し、最盛期を迎えた。
 市街地は大きく三日市・八日市・新町に分れ、三日市を中心に旅館が多いのに驚く。乗用車の普及や山陰道沿線の都市の求心力が高まって衰退してはいるものだろうが、かつての地域中心としての揺らぎない町の姿が遺憾なく残影として留まっている。支流に沿う八日市地区では、伝統的な町家建築も所々に残っており、商業町としての賑わいが今に伝わっているのが感じられた。
 

 


木次(旧八日市)の町並 木次(旧八日市)にある大松 樹齢450年と言われ家屋の中から屋根を突き抜け伸びている

訪問日:2007.06.17 TOP 町並INDEX