杵築の郷愁風景

大分県杵築市<城下町> 地図
 
町並度 7 非俗化度 4  −城下町としての都市区画が今でもはっきりと残る−


 市とは言いながらも人口約2万人の小都市杵築は、かつて木付と表記され、中世に木付氏の居城があったことに由来する。
 江戸期は松平氏の城下町として廃藩まで続いたこの町は、自然の地形を活かした独特な展開を示し、訪ねる者に町並風景の変化を興味深く感じさせる。
 旧市街は東端の小高い丘の上に杵築城跡、その西側に低平な地が僅かに開けるが、すぐに丘陵が舌状に張出してくる。この台地の上に武家屋敷を配置していた。中間に谷間を挟んで北台・南台と呼ばれ、北台には上級武士を、南台には中級武士の居住地であった。一方台地を切り裂くように東西に伸びる細長い谷間の地区は町人町として商家が発達していた。遠方の見通しの利く高い土地に武家を配置することは、防衛上も有利であっただろう。南には八坂川を控えており、要害の地を設けるのに絶好の地形をしていることがわかる。
 


勘定場の坂から北台武家屋敷街を見る




北台の町並 北台と町人町を結ぶ酢屋の坂。右は大原邸。



志保屋の坂から北台を見る



南台武家屋敷街の風景




酢屋の坂の由来となった谷間の町人街にある味噌商。道路拡張に伴い解体新築されかなり異なる外観となっている。
(左)2001年9月 (右)2006年8月
 

 武家街と町人町を結ぶ坂道もまた、この町並を特徴付けるものとなっている。勘定場の坂、酢屋の坂、飴屋の坂など当時からの呼び名が生きている。特に南台の志保屋の坂から酢屋の坂を望む風景は素晴しく、高い石垣の上に茅葺の母屋を持つ大原邸にかけての眺めは杵築を代表する風景としてよく紹介される。この大原邸は、京都の職人による池を配した回遊式庭園があり、かつて森を拓いた土地であることを伝えるように巨樹が残されている。屋敷は代々御用屋敷として名士の所有するところとなり、最後に大原氏の邸宅となって役目を終えた。ここでは抹茶を飲みながら縁側にしばらく腰を下ろしてみるのがよい。南台武家屋敷街では中級武家街ということもあって、残っている長屋門などもやや小さくなるが、練り塀の続く通りもあり、街路幅も広いため開放的な明るい雰囲気の町並であった。
 酢屋の坂を下ったところに伝統的な町家建築があり、味噌を商われている。この綾部味噌は創立当初酢商であったそうで、坂の名前の由来である。
 この付近の町並は近年道路拡幅工事によりすっかり様相が変わってしまったことが惜しまれる。前回(2001年)に訪ねた時は、この町人町筋の西部で工事が完了し、古い町並を模した新築の家並が出現していたが、今回はとうとう酢屋の坂付近までその影響が及んでいた。車がすれ違うのがやっとの道幅だったものが、堂々たる幹線道路並の道幅に改修されつつあり、知らなければ少し前までここに軒を連ねる古い町並があったとは思えない、区画整理されたような風景が展開していた。古い姿を活かしながら都市の活性化を試みるという長期にわたる事業だそうだが、私が見る限りでは古い町並としては破壊され、全く零に等しいものに変貌している。武家屋敷だけが形骸的に残り、町人町の商家の風景は過去のものになってしまったようだ。
 このような例は全国いたるところに見られ、重伝建地区以外では全ての町並で消滅の危機に瀕しているといっても過言ではないようだ。
  

※注記の画像以外は2006年8月再訪問時撮影


訪問日:2001.09.23
(2006.08.14再取材)
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