木津の郷愁風景

京都府木津町【商業町・港町】 地図
 
町並度 6 非俗化度 8 -木津川水運により商業が栄えた-












旧奈良街道沿いに残る木津の町並


 木津町は府の南端、名の示すように木津川とともにある町で、南側はすぐに奈良市に接している。
 川が山地から平地に解放される位置にあり、流れもこの付近で北に急激に方向を変える。こうした地形は、人間の経済活動上重要な拠点となることが多く、木津もその例に漏れない。古代より宮都造営のための材木がここで陸揚げされたとあり、木津の名もそれに因むとされる。古くは泉川と呼ばれたいたこの川は、国道の泉大橋にその名残を留めるが、川港は泉津と呼ばれ、その後木津川と改称されたようである。
 後背地である山間の村々からの物資がここに集まり、また江戸時代になると伊賀上野(三重県)まで荷船の遡行が可能になって、その中継地ともなり賑った。木津川は伊賀や大和北部・山城南部と京大坂を結ぶ重要な経済・交通の大動脈となっていて、この町に多くの船頭がいた。農産物を中心に大坂に向い、帰りは塩や油粕などを積んで帰ったという。木津川は八幡市付近まで北上し、淀川に合流するという大坂に向うにあたっては大変な遠回りであったが、当時大量の物資の輸送は舟運が最も効率的で、ここにその結節点として商業町が発展した。
 明治以降現在でも木津は関西本線と奈良線、片町線の集結する鉄道の要衝となっており、また国道も対岸の木津川畔から伊賀方面への道が分岐するなど、交通の重要な拠点となっている。変わったのは木津川が物資輸送の機能を全く失ったことだ。泉大橋に立って川を見渡すと、冬場の渇水期のこともあり川底を嘗めるような僅かな水があるだけで、ここを高瀬舟が行き交ったとは想像し難い眺めである。
 泉大橋のやや下流側に奈良街道の渡し場があった。そのあたりから南に残る街路に沿って、古い町並が長々と連なっている。川港の町並といっても川岸に展開するのではなく、街道集落的に線状に残るのは、この港町から奈良方面への強い物資の流れがあったのかと思わせる。そして町家も京と奈良を突きあわせたような姿を示していた。中二階の平入りの外観は共通するが、格子の目は粗く奈良の市街地の町家を思わせ、二階の虫籠窓は、現在も京都市内で見られるものに酷似している。双方の建築文化をブレンドしたような町並が続いていた。

 






 旧奈良街道は緩やかな曲線を繰返し、また古い町家の密度も比較的濃いため連続性のある古い町並が展開し、見応えがある。ただ古い町並の密度の濃いこの地域のためか、他の寺社などの文化財に隠れてか町家群を保存しようとする動きがないのが歩いているとわかる。近年同志社大学の進出などで学研都市線と呼ばれる片町線が大坂都心に直通しだして、大都市郊外の延長のようになりつつある。気付いたらこの町の本来の姿がなくなっていたなどということのないように願う。



訪問日:2007.01.02 TOP 町並INDEX