幸袋の郷愁風景

福岡県飯塚市<商業町・川湊> 地図
町並度 5 非俗化度 10 −遠賀川の水運・炭坑業で栄えた−


 飯塚市の北部、遠賀川の西岸に幸袋の町がある。ここはかつては「河袋」と記したと言われ、川が蛇行していた地形に由来するとされる。天保年間頃から今の「幸」の字が使われた文献が見られる。 
 幸袋の町並




 幸袋本町の通りには船運で賑わった頃の家並がまだ残っています。ここには船庄屋も置かれていました。 国道沿いに残る見事な妻入り商家。

 


 
このような個性ある旧家も残っています。
 
 
 江戸期は福岡藩領及び直方藩領に属し、町中を長崎街道が通過する街村だったが、物資の往来が盛んになるにつれ遠賀川がその輸送路にあてられ、幸袋は川港として町の発展をみた。商業の中心として問屋等も立地して、生蝋・農具・金物などを商った。
 近代に入ると筑豊炭田地帯の一端を担い、大小の炭坑が周辺に開かれることで、炭坑主もこの地に居を構えた。明治27年筑豊本線小竹駅から支線が伸び、伊藤衛右衛門らが明治29年炭坑機械製作のため幸袋工作所を設立。これより大正期にかけてがこの町の黄金期であっただろう。職工学校も開かれ、多くの炭坑技術者が養成されたという。日中戦争頃から第二次大戦中に乱掘が行われたこともあり戦後は閉山が相次ぎ、昭和40年頃までに全て閉山し、幸袋線も廃線となった。
 伊藤家住宅は、いかめしい門とともに今でも本町に残る。しかしその周辺の町並は、炭坑町としての雰囲気よりも、川湊として商業が栄えた町だったのだろうという印象を抱く。この地方独特の2階を漆喰に塗りまわされた妻入りの商家が、ある程度連続して残る町並らしい風景も自然な形で残り、近くで商業施設や大型の病院が立地している中でよく残っていると言えるだろう。2階正面部一面に見事な鏝絵のある家もあり、裕福な家々だったのだろうと想像できる。多くが明治以降の建築であろうが、町並として保存活動をされ残していくに足りる家並の質であった。




町域西側の町並 大炭坑主であった伊藤家の門。寺の門のようです。


訪問日:2003.12.04 TOP 町並INDEX