大和郡山の郷愁風景

奈良県大和郡山市<城下町> 地図
 
町並度 6 非俗化度 5  −城下町時代の細やかな町割が今に残る−







紺屋町の町並 中央の水路では名の通り紺屋が藍染を晒していたという 
 
 

 
郡山の歴史は古く、平城京の南に連なる町として位置づけられ、市域北部には西奈良口町・東奈良口町という町名が残り、その辺りが平城京の一坊大路に当っていたという。東大寺の荘園ものこの付近に設けられていたといわれる。
 中世に入ると地侍であった筒井氏が台頭し郡山城を築城、以後城主はさまざまな変遷を経たが、現在の城下町の基礎は天正13(1585)年に豊臣秀吉の弟であった秀長が入城した時までにに遡る。
 大和では城下町として本格的に町割等が残っている町が少なく、古い町並がよく残っていても多くが商業町なのであるが、この郡山は生粋の城下町であり、地図を見てもそのことがよくわかる。市街地には城跡が濠とともに残り、その東側には城下町特有の細かい町割が今でも残っている。ほとんど小路ごとに区分されていて、豆腐町・紺屋町・塩町・魚町・雑穀町・鍛冶町・大工町...。それらの味わいある町名が今でもそのまま受継がれているのが嬉しい。
 この町で古い町並を訪ねたいなら、ひたすらこの旧町名の入混じった一帯を歩くとよい。路地も狭く複雑に入組み、近代的な都市になるのを頑なに拒んでいるような雰囲気がある。さすがに過半数では現代風の家屋に建て変わっているものの、平入りで袖壁を備え付けた伝統的な町家が多く残っている。1階部分も改修されず美しい格子を残す旧家もある。古くから過密都市だったのだろう、家々の間口が狭くまさに軒を接した佇まいだ。
 紺屋町付近は例外で、街路が広くしかも中央に細い流れがある。これは城の濠水から引いているということで、かつてはこれを利用して紺屋が藍染めの布を晒していたといわれる。このような遺構を潰さず残している姿に、この町の古いものに対する愛着と思い入れを感じる。
 古い町並としてはそれほど連続性は高くないが、市街地が広いため町家の軒数は多く、小路の角を曲ればまた別の家並・旧家と、路地歩きの楽しさがある。ここでは町名の書かれた町の地図を片手に歩かれることをお勧めしたい。

 
 
 




塩町の町並  今井町の町並




今井町の町並 柳一丁目の町並




柳四丁目の町並


★印:2005年12月撮影
その他:2010年3月撮影

訪問日:2005.12.11
(2010.03.28再取材)
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