高山市の郷愁風景

岡山県川上町・芳井町<商業町・門前町> 地図 <高梁市・井原市>
 
町並度 6 非俗化度 8  
−尾根筋に伸びる赤瓦の集落はかつて幹線道路上の商業町であった−






高山市の町並 山道を延々と上ったところにあるとは思えない。


 川上町の中心である地頭地区から西へ伸びる道筋は高山往来と呼ばれ、江戸期から明治にかけての幹線交通路であった。備中笠岡から備後東城へ通じ、南からは海産物・綿や木綿などが、北の山間部からは穀類や煙草、楮や炭が運ばれ、この高山市で双方の産物が折り合った。当時は成羽とならび郡内の商業の中心地とされ、明治16年の書物には「半バ物売屋旅籠屋、半バ諸産物仲買ヲ業トシ活計ヲ立ツル旧慣」と記録されている。位置的に往来の中間にあることから、山海それぞれの産物を求めて近隣から人々が集まった昔がうかがえる。
 一方、町の北方約1kmには穴門山神社が鎮座し、その門前町としても賑わいを見せた。毎月五の付く日には市が開かれ、また年三回あった神社の祭礼日には一層の賑わいを見せていたという。江戸末期からは牛市も開かれていた。「市」の名の通りの集落だったのである。
 この町はかなり風変わりな点が2つある。まずこうした町場は通常舟運の利便のいい川沿いか、平野部に構えられるのが普通なのだが、この高山市は吉備高原の山中にある。それも山の尾根に沿い細長く集落が展開する感じで、標高は約600m、街道沿いでは最も高い位置、峠ともいえる箇所に存在している。そして後一つは町場が街路を挟んで複数の自治体に跨っていることだ。北側が川上町高山市(現高梁市域)、反対側は芳井町東三原(現井原市域)となっている。この小さな集落で、道を挟んだ家が別々の役所に手続に行かなければならぬということなのだろう。そして、細い山道を登った山上に、このようなまとまった町並が現在も存在しているということは、狐につままれるようだとまでは言わないがさらに驚きを感じさせ意外性に満ちている。
 こんな場所に商業町が大きく発展していた理由は、笠岡と東城という両端の求心力がほぼ等しい街道の中間地点に位置していたことと、今一つは門前町で人が集まる要素があったことだろう。そうでないと特に地頭、笠岡側からは比高400mにも及ぶ坂を上ってこなくてはならず、こんなところに商業の集積を見る訳がない。
 歩きながら思わず色々考察を巡らせてしまう集落である。
 この町並の外観はまた、妻入り、赤瓦などと山陽地方の一般的な姿とは異なる。備中地方では吹屋の家並に似通う雰囲気を持っている。赤瓦は街道の起・終点の笠岡、東城ともに全く見られないのにここに現れるのが不思議ではある。吹屋を含む旧川上郡に独自の赤瓦文化圏があったのかもしれない。当時の町場の規模からは当然のことながら大きく縮小してしまっているのだろうが、それでも端から端まで1kmほどもあり、歯抜けになりながらも家々は途切れない。西に向って登っていく街路は一箇所遠見遮断を目的とした屈曲があり、重要な町だったことを思わせる。
 家々にはかつての屋号が示されていて、繁栄の昔を風化させまいとする努力が伝わってくる。
 








妻入り・赤瓦の家屋が目立つ。  

訪問日:2006.01.22 TOP 町並INDEX