高野山の郷愁風景

和歌山県高野町【門前町】 地図 
 
町並度 6 非俗化度 2  −わが国を代表する宗教都市−

金剛峰寺付近より東に続く幹線路に連なる土産物街
 

 弘法大師(空海)により開設されたわが国最大ともいえる仏教街、弘仁7(816)年に嵯峨天皇からこの地を下賜されて以来、真言宗の総本山金剛峰寺を中心として一台寺院街・宗教都市を形成してきた。周囲を1000m級の山地に囲まれた小盆地に100以上の寺院が存在し、他には類を見ない純度の高いものである。
 東西6km・南北3kmほどの比較的平坦な土地がこの重畳たる山地の只中にあることは、結果からとはいえその必然性も感じられる。
 室町幕府による高野山の保護、その後戦国期にかけても大名とその一族による宿坊契約が盛んに行われたのみならず、高野聖と呼ばれた布教組織により全国に弘法大師信仰を触れ回ったことにより大きく発達し、権力を持つようになった。江戸期に入ると、幕府が統制策をとるほどであった。顕著なものが元禄高野聖断と呼ばれた政策で、商取引に傾倒した行人衆を多数追放している。しかし高野山は明治維新まで、麓の伊都・那珂郡全体、約170諸村を掌中に治めていた。
 江戸も後期になると魚屋以外すべての商売が行われていたといわれ、特に今でも全国区になっている高野豆腐、茶や箸・杓子・墨の原料である松煙などがある。また陀羅尼助という称号の胃腸薬も土産物として盛んに生産された。ただ、商人たちは他の地方の町場とは異なって自ら屋敷を建造することはできず、諸寺の長屋などを借用する例がほとんどであったようだ。
 現在主要道路に面して各種商店の伝統的な建物が見られるのは、明治に入って寺領返還という制度が発布されて以後で、それは寺院の間に商人が自由に居を構えられるようになったからである。高野山は長らく女人禁制の地で、明治半ばまでは女性と7歳以下の小児が在住することが禁じられており、また一時的な宿泊にも厳しい制限が課せられていた。それらの禁制が解けたのも近現代に入ってからというから、いかに特殊な環境にあった町であるかがわかる。
 高野町という一つの自治体でありながら、町の中心では寺院と店舗ばかりであり、一般家屋はどこにあるのかと探さねばならないような町並が連なっており、特異な町並の中でもその真骨頂といったところだ。
 現在の町は昭和9年に弘法大師の1100年忌の折に大規模に整備され、そのときに基盤が築かれたとされ、金剛峰寺と奥の院とを結ぶメインの街路を中心に土産物街が形成されている。格式ある宗教都市であることもあり観光客に迎合したような外観の建物がないのは流石といったところだが、やはりほとんどが昭和の建物なのだろう、古い町並として見るとそれほど古色蒼然といったイメージではない。
 今では信仰者の訪れというよりも一般観光客の方が多く、シーズンには一般車をはじめ、観光バスが麓からの山岳路に連なり渋滞を惹き起している。
 
 




幹線道沿いの町並


 


裏通りにも所々伝統的な家並が見られる


金剛峰寺の境内


訪問日:2011.08.14 TOP 町並INDEX