九度山の郷愁風景

和歌山県九度山町<商業町・街道集落> 地図
町並度 6 非俗化度 9  
−高野山登山口に位置する紀ノ川沿いの要害の町−




九度山の町並。川にせり出す丘陵の尾根部に市街地が伸びている。緩やかなカーブと勾配を持って家並が続く。
 
 
 
九度山の町は紀ノ川南岸、川に向って丘陵のせり出した独特の地形の上に市街地が開けている。周囲に平地は見られるのにどうしてこのような丘の上を町場に選んだのか、一見不思議である。洪水を避けるためといえばそれまでかもしれないが、ここが高野山への登山口であり、かつて寺領の支配の拠点としたということを知れば、要害の地だったのだろうという推測が容易に付く。
 中世以来、高野山への物資の輸送口、高野山で使われる仏具の保管、冬場の避寒地ともされていた。また所領の年貢の集散、紀ノ川を通じて中央からの物資も荷揚げされ、高野山の政治経済活動の窓口として重要な機能を有していたのである。天正19(1591)の文書で「当村は近郷より集りて諸物交易の地にして、商家東西に軒を連ね市街をなす、また高野山に建つる石碑等を運ひて賃庸するもの多く、婦女は縞木綿を織り真田紐をうつを農間の余業とす」と記されているのが、この町の当時の様子をよく表している。
 紀ノ川に向い舌状に張出した細い丘陵上は馬の背のように平地がほとんどなく、その尾根筋に伸びる街路に沿い古い町並が続く。商店を思わせる間口の広く、一階部が開放的なつくりとなっている町家や、商家だったことを匂わせる入母屋造り・本瓦葺の旧家が、緩やかなカーブと勾配を持ちながら連ねる尾根筋の両側に残っている。
 
わざわざこのような地形の所を現代になり幹線道路として抜本的に開発することはない。だから往時の道筋は破壊されることなく、藩政期、さらにこの町が開かれた頃からの線形を保って保存されている。この道は高野山への参詣路でもあった。門前町的な性格も帯びていたのだろうか。逆に考えればここに古い町並が残っているのはその過去を考えると自然なことのように思えてくる。ニュータウンのような画一的な町とは最も対蹠的な姿といえる。
 古い町家造りはほぼこの参道に沿い一列に残るが、北端の九度山橋近くでは西側の路地を含め東西二列に展開していた。
 真田という言葉が町を歩いているとよく眼につくのでもしやと思ったが、ここは信濃上田や松代などを統治した真田氏が、関ヶ原の役での敗走の結果ここに落着き、十余年を過した。かつての邸の跡は寺となっているが、別名真田屋敷と呼ばれている。
 

 
 




北側では入母屋の大きな家も目立ち商業が大きく発達したであろうことを示している。この辺りでは街路はやや平坦となる。




裏路地の町並 紀ノ川より市街地を望む。自然の要害の地といえる地形だ。
 

 
旧家の正面に置かれている「米金の金時」。町の人に親しまれている。これは実は焼物で、大正初年、荘平と名乗った人物が手掛けたものだ。


訪問日:2006.04.30 TOP 町並INDEX