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この熊川は古い町並が出現するにしては地勢的に意外なところ、そしてその町並の質がそれに反比例して高いことで、訪ねる者に強い印象を与える町並の一つといえるだろう。若狭と近江の国境、冬は雪深い国境の山間、そんなところに栄華を極めた昔町が存在していたということは想像しがたいだろう。 |
中ノ町の町並。街道沿いの水路と家並がよく調和している。 |
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下ノ町の町並 |
下ノ町の町並 |
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中ノ町の町並 |
中ノ町の町並 |
しかし当時の交通、経済事情から考えるとここに町場が形成されるのは必然的なことだった。
若狭の海は都(京都)から最も近い日本海である。交通の面ではかつて海上輸送は現在と比較にならぬほど重要度が高く、北前船に代表されるように物資の大量輸送は専ら海運に頼っていたし、鉄道や自動車道のなかった江戸期では街道を歩くより船で移動する方が有利ともいえた。
若狭と都の間には琵琶湖がある。若狭に陸揚げされた物資は琵琶湖で再び舟運に任され、大津から京都へ搬送された。あるものはそのまま陸路をたどって直接京都へ運ばれた。いずれも多くの場合、この熊川を経由した。
ここが一大宿場町となったのは、政治的には天正15(1587)年、若狭領主・浅野長吉の検地によりここが要害の地とされ、諸役免除とされ町立てされたことによるが、若狭の中心である小浜から京都への搬路の中で、川運から陸運へ切り替わる位置にあったことも集落の発展しやすい要因があった。その川港としての機能は江戸初期の僅かな間であったが、その後も江若の峠を控えた地に位置することから、人口の集中を見た。陣屋をはじめとして奉行所などの諸機能も備えられ、藩の米蔵もあり、物資の中継点として問屋も数多く軒を連ねていた。
大消費地京都を控えて様々な物資がここを通っていったが、中でも内陸部で鮮魚に乏しい京都人にとって、若狭の海産物は貴重品であった。この熊川を通る街道が「鯖街道」と呼ばれているのも、鮮魚輸送に欠かせない道であったからである。ひと塩物の鯖は京都に着くころには水気が抜けて丁度よい加減になっていて、今でも海から遠いにも関わらず鯖や鯡など魚を素材とした料理が多いのもこの鯖街道の功績が大きい。
また、西国霊場の二九番札所松尾寺(現舞鶴市)から三十番宝厳寺(竹生島)への巡礼の道にあたっていたことも、この界隈の往来の賑やかさに大きく寄与していた。『御用日記』には享保8(1723)年7月25日には422人、前後三日間で1000人ほどの巡礼者が熊川に宿をとったとの記録もある。
そうした事情もあり、ここには当時の町家の連なりが今も古い町並として残っている。国道で潰されなかったのも幸運だった。平入り、中二階、両端の袖壁、漆喰の塗屋造りが基本だが、中には妻入りのものも見受けられ、重要伝統的建造物群保存地区となってからはそれらも保存工事が行き届いて、宿場時代の現役の町のような雰囲気が甦っている。
町並は小浜方から下ノ町、中ノ町、上ノ町と区分され、下ノ町と中ノ町の境には枡形がある。宿駅の中心であった中ノ町には現在でも町家建築が連続し、写真の被写体に絶好のような古い町並があった。
但し、町家の修築をはじめ電柱撤去、カラー舗装など外来者の眼を意識しすぎた面も感じられ、全く古い町並のないところでも、努力次第でこのような風景を形作ることができるのではないかとの思いも抱いた。かつての風情をそのまま現在に伝えることは100%不可能である。かといって手を加えすぎると、作られた観光施設になってしまう。その辺のバランスは町並保存にとって永遠の難題ではある。 |
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中ノ町の町並 |
上ノ町の町並 |