現在は周南市域となっている熊毛町呼坂地区は山陽道の宿駅として古い歴史を持つ町である。
東西が低い峠によって限られた小盆地に位置し、古くは「はるばると越え過ぎて、えび坂という里の寺の侍べりしに泊りぬ」(応安四-1371年『道ゆきぶり』)の記述のようにえび坂と呼ばれ、後に呼坂に転じたものと思われる。
藩政時代は呼坂市と呼ばれ、中央を流れる中村川によって西側を西町、東側を新町と言っていた。新町にあるひときわ敷地の広い旧家は河内家といい本陣にあてられていた。代々庄屋・大庄屋を勤め、酒造業を営んでいた。また田地も広く所有し、当家に「天明年間 見本米」と記された袋が残っているという。これは当時、当宿の御用米の所要量以上の余剰米を毎年大坂市場に売りさばいており、中村川沿いの枝往還を経由し島田川の川運に委ねて浅江川口(現光市)から海路大坂に運搬されていた。
また、橋の近くの西町には明治維新の立役者木戸孝允の祖父であった藤本玄盛(医者)宅も残っている。
ここには馬建場があり、馬15頭と人足49人を常備していた。中村川を谷底として東西に緩やかに登りながら、宿場らしい佇まいを今に残している。但し多くは現代風の住宅に変えられ、また更地になり駐車場等になっている姿も目立つことから、往時の賑やかさを想像することは難しい。むろん人通りもほとんどない。
集落の東端近くになると街路は緩やかにカーブしている。この一角には土塀を巡らした屋敷などが残り、町並景観の多様性に寄与していた。
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