神代の郷愁風景

長崎県国見町<武家町・町家群> 地図 <雲仙市>
 
町並度 6 非俗化度 8 −石垣・竹垣に縁取られた侍町−





神代の町並。鶴亀城の麓には武家町らしい構えが程度よく残されている。


 島原半島の最北部にある国見町は、半島の中央に連なる山々の裾野が緩やかに伸び、平地が開けのどかな農村地帯が広がっている。町の西部・神代地区には歴史を深く刻んだ町並が静かに息づいていた。
 半島を東回りに2/3周する島原鉄道の神代町駅付近から南西方向に小高い丘が望まれる。中世に城が構えられていたところで、その麓には武家町が端正な姿を残していた。自然石を使った石垣、または樹木による生垣が続き、土用竹を密生させた竹垣もあり瑞々しい緑溢れる街路だった。歴史の風格を感じさせる小路は途中に鍵の手を交えながら500mほど続く。
 一角には厳かな長屋門が見える。そして内部には山裾を上手く利用した庭園と屋敷群が、知られることもなく息づいていた。石垣と長屋門など、武家町に特徴的な遺構で観光地になっている他の町にも劣ることない質と量を現代に残していた。
 ここは藩政時代に佐賀城を拠点とする鍋島氏の支配下にあったが、慶長期に佐賀藩主鍋島直茂の兄信房が鹿島から移り、神代鍋島氏を名乗っている。領地内の裁判権や徴税権が与えられた独立性のある体制が与えられ、地元では神代分藩とも呼ばれていた。
 丘の上にある城は鶴亀城と呼ばれ、南北朝期などの騒乱時代に築城されたものだった。古くから島原半島北部の軍事的な拠点とされていたことを利用し、麓に神代鍋島氏の居館や家老だった帆足氏などの屋敷を集め、城下町的な町を計画した。今に残る武家町はその名残である。
 鍵の手を挟んで本小路・上小路といわれ、さらに南側には今小路と、武家町は大きくこの2本で構成されていた。石垣も加工しない丸石を積上げただけの武骨なもの、練積のもの、煉瓦状に加工され精緻に積まれたものなど様々で、先の生垣・竹垣を含めややもすると単調になりがちな侍町の町並景観に変化を与えている。




神代鍋島家の長屋門。門は2基もあり、内部は地形を利用した庭園と屋敷群がある。


 一方島原鉄道の線路を挟んだ海側にも趣の違う町並が残る。漆喰塗屋造りの町家がある程度固まっていた。明治以降、ここは酒や醤油などの醸造・石工・大工・木挽職人などが集まり商業地としても発展を見たようで、その名残だろう。海鼠壁を施した町家も見られた。
 この町並は案内板こそ設置されているが、一般にはほとんど知られていない。現存度や歴史性から考えても貴重なことだ。有名になどならなくてよい。知る人ぞ知る珠玉の町並であり続けてほしいものだ。




武家町より海側の位置に残る商家の町並

訪問日:2005.07.18 TOP 町並INDEX