鶴川の郷愁風景

大分県国東町<港町> 地図 <国東市>
 町並度 5 非俗化度 8 −古代より港が発達し商取引が盛んに行われた国東半島の中心地−


 


 
商店を中心に密度濃く連なる鶴川の町並
 

 
国東町鶴川は半島が最も東部にせり出した辺りに町が展開している。
 伊予灘・周防灘から瀬戸内一帯へと向いた地形から、古代より海運が盛んに行われていた。平安期には国埼津とよばれ早くも港が発達していた。当時、公的には大宰府から許可証を得て関門の関を通過しないといけなかったが、許可を得ず自由に交易を行う者も多かったという。
 江戸時代は初期に小笠原氏の支配を経て前半は杵築藩松平氏領で、元文2(1737)年からは幕府領となった。杵築藩の時代に藺(い草)の栽培が奨励され、その積出のため港が整備された。特に田深川河口付近にあった港は荷の往来が多く、田深と河口右岸の鶴川は在町として発達した。
 明治には東国東郡の役所が鶴川に置かれ、常に半島の中心的地位を占める村であった。
 鶴川の町並は、海岸部だが少し小高い台地上の一帯に街村的に連なっている。かつての中心街は現代の商店街となっており、伝統的な建物が多く見られるという状態ではないが、家並の連続性が高く見応えを感じる。所々に重厚な瓦屋根を持つ老舗の姿、さらに旅館の看板を掲げた建物も少なからず見られ、港を中心とした賑わいの町らしい佇まいであった。現代的な面立ちの建物も、昭和の雰囲気を濃厚に感じさせる店舗の姿だった。
 大正11年に国鉄杵築駅と杵築の中心街を結んでスタートした国東鉄道は、少しずつ路線を延長し昭和10年ここまで達し、鉄道ターミナル駅として各方面へのバス路線が発達した。この頃が、町の隆盛期だったのだろう。同鉄道は昭和36年の豪雨災害により折からの自動車の普及も相まって廃線となった。
 


 


 
   


 


 
  付近には旅館が何軒も見られた 

訪問日:2021.11.14 TOP 町並INDEX