倉賀野の郷愁風景

群馬県高崎市【宿場町・商業町】 地図
 町並度 5 非俗化度 6  
日光例幣使街道の追分 河岸により賑った中山道の大規模な宿駅


 倉賀野町は高崎市域の南部にあり、高崎線の駅があり中央本線の八王子へ達する八高線がここから分岐する。徒歩時代もここは中山道と日光例幣使街道の追分を持つ地であり、大規模な宿場町が発達していた。
上町の町並 うだつを構えた旧家が残っていた


 江戸寄りの新町宿、信州寄りの高崎宿との間にあり、本陣1・脇本陣2が指定され旅籠や宿屋も60超を数えた。追分の宿ということもあり利用者も多く、特に飯盛女なども多数存在し遊興色の濃い側面があった。十返舎一九も「乗こころよさそふこそ見ゆるなり馬のくらがのしゅくのめしもり」という狂歌を残している。倉賀野の「倉」を馬の鞍の音になぞらえているあたりが生々しい叙述である。
 さて、倉賀野宿の発達は例幣使街道の追分というだけでなく、河岸の存在に因るところが大きかった。中山道より南側に少し離れた位置に烏川が流れ、それは利根川に通じさらに江戸川を経て江戸との物資の往来に便利だった。江戸の厖大な需要に呼応して穀物や煙草、木材などの搬出が頻々と行われ、帰り荷は魚介類や塩、油や茶などであった。利根川筋では最上流の河岸であり、上州のみならず信州の諸物資もここから積出していたこともあり舟問屋は最盛期には74軒も存在したという。
 このように単に宿駅としてのみならず、明治中期の鉄道開通まで川港町・商業町として大変な発展を見た。
 倉賀野宿付近の中山道は国道に潰されることなく生活道路として残されているため、その面影を濃く残し例幣使街道との追分もそのまま交差点として活きている。追分付近より下町・中町・上町と呼ばれた町並は約1kmにわたって続く。古い町並として連続した箇所は少ないが、間口の広い大柄な商家建築が随所に残っており、宿場町としてよりも河岸を仲立とした商業町が今に姿を留めている気がした。
 町家は平入りで全て総二階の堂々としたつくりであり、河岸の賑わいのあった明治前期に建てられたものが多くを占めると思われる。中でも上町にはうだつを構えた旧家もあり、1・2階部ともに前面は格子がよく原型を留め、門を構えた庭が隣接し豪商屋敷のような厳かな構えを見せていた。
 





日光例幣使街道の追分 下町の町並


 



中町の町並




趣ある海鼠壁の路地もあった


訪問日:2008.10.11 TOP 町並INDEX