黒江の郷愁風景

和歌山県海南市<産業町> 地図
町並度 6 非俗化度 3  −紀州漆器で繁栄した産業町−




黒江の中心街・川端通に残る商家の町並







旧職人町であった路地の風景




旧熊野街道沿いの町並
 
 
 黒江は紀州漆器の町として知られる。古くは江戸初期、漆芸に秀でた高野山根来寺の僧が数人ここに住み着き、住民にその技術を伝えたことが始まりとか。さらに遡って、戦国時代に近江の木地師たちがここで檜を材料に木椀を作りだしたのが起源とも言われる。そしてこの黒江の地が 旧熊野街道に面していたことや、穏やかな港に接していて製品の積出、また生活物資などの仕入などにも便利なことが、紀州漆器の職人町・商業町として稀に見る発達を促した要因なのだろう。
 製品は厚塗膳、盆や重箱など板物から椀などの器に至るまで多岐に及び、江戸も中期になると庶民の間でも日用品としての需要が高まったことから藩も生産を奨励・保護し、全国各地、また神戸や長崎の外商に販売されるまでに発展する。明治には海外に多く輸出されていった。
 町並を歩くと現在でも漆器を扱う店があちこちに眼につく。多くの古い町並は過去の栄光を偲びながら歩くことが通常なのだが、ここでは現在に至ってもなお、当初からの産業が連綿と続けられ、生きた町並として語り継がれているようだ。象徴的な旧家や、迫力的な見応えのある町並風景は余り見られない一方で、路地におけるある意味雑然とした建込み具合はこの町を特徴付ける風景だ。江戸時代には既にこの狭い市街地に3000人を超える人口を抱えていたこともあり、当時からの細やかで入組んだ町割が、現在に至っても大きく変化することなく踏襲されているのだろう。
 黒江の町の中心は山裾から一直線に海に向って伸びる川端通りと呼ばれる一本道である。この街路は二車線の車道を確保しなお余りあるほどの道幅を有している。町中にあった説明板ではここに堀川という、両岸の埋立てにより狭まった運河があったという。古い地名で西の浜、東の浜といわれたのはここが元は入江で、職人の住居のために徐々に埋立てられ、その入江の中心部分は長らく折り合わず水路として残されていたことが想像できる。広い街路幅や川端通りという名はその名残なのかもしれない。この大通りに面して、やや大柄な商家の建物が見られる。ほとんどは平入りの町家建築だが、一部に洋風建築風の物も見られ、現代になっても大きな発展を続けていたことを示しているようだ。さらに山裾に向う旧熊野街道、黒江坂付近にも断続的に古い町並が残っていた。
 一方、この大通りから裏手に入ると路地が錯綜し、小規模な町家建築が入り乱れるように建ち並ぶ風景が見られる。こちらは職人町であった。

 この町並はよく鋸の刃の家並として紹介される。通りに面して斜に構え、三角形のデッドスペースを有している。このような家並は全国各地によく見られるもので、とりわけ珍しいものではないが、ここでは狭い路地上に展開している分、一層その特徴を際立たせているようだ。 

 


訪問日:2006.04.30 TOP 町並INDEX