伝説によると、大隅国根占城主であった黒木助能が12世紀後半にこの地に築城し、猫尾城(黒木城)と呼ばれ、数々の支城を抱えて一帯を支配した。しかし度重なる難にさらされ、1336(建武元)年、足利尊氏が肥後の菊池氏を破った際、黒木に敗走してきた菊池軍を追ってこの黒木城を攻め落としている。また、戦国末期の1584(天正12)年には城主黒木家永が豊後の戦国大名大友氏に攻められて落城したと伝えられる。やがて一国一城令によって廃城となり、廃材は久留米城の修築などに利用された。
現在、小高い猫山山頂に石垣や土塁などの遺構がのこり、わずかに面影を伝えている。
江戸期は矢部川を境に北が久留米藩領、南が柳川藩領となっていた。そのため水利などを種に紛争が絶えず、川庄屋を立てて和談にあたったという。それ以後市場町として栄えたのは、城下町としての基盤があってこそのことであろう。
現在の町は国道442号線が横断し、かつての町の中心を分断している。市場町として問屋がならんだであろう姿は、その南側の旧道沿いに少しまとまって残っていた。妻入り、白漆喰に塗り込められた九州らしい町家群は、町のホームページでは「百年前の町並」と謳われている。しかしそれらも連続して大規模に残り本格的な古い町並を形成しているのではなく、櫛の歯のように抜けて偶然残ったという方が正解だろう。
これらの町家群を保存していくには今しかない。これ以上更新されないうちに、具体的な動きを示してもらいたいものだ。
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