櫛ヶ浜の郷愁風景

山口県徳山市 <漁村・港町> 地図 <周南市>
 
町並度 5 非俗化度 9 −工業地帯の陰にかつての港町を伝える−
 
櫛ヶ浜の町並
 

 徳山市街地の南東の外れに位置する櫛ヶ浜地区はもと串浜と呼ばれ、江戸期は萩藩領であった。名が残る最も古い資料は、毛利輝元が元和元(1617)年、次男就隆に分知した領地目録に串浜三一七石と見える。同7年萩藩に返却し、替地を新たに受領している。古くから漁業の町として栄えていたらしく、最盛期には80余艘の船があり、二百及び百五十石積の廻船二艘を保有、イサバ37艘、その他漁船があり近場で海鼠漁などを操業していたほか、九州五島列島近海まで鰯漁に出ていたという。
 商業地としては、寛保元(1741)の「地下上申」には「往古は立市有之」とあるが他所人との喧嘩により市が立たなくなったとの記録が残る。純粋な漁村・港町であったようだ。
 「注進案」によると、往時の櫛ヶ浜の様子について、「東西通リ抜町長サ凡三丁余、町筋左右裏家共ニ家数三百参拾余軒(中略)、漁人ノ儀ニ付上之分住居ハ無之、凡二歩方瓦葺、八歩方茅葺之事」とある。
 その2割の瓦葺は本瓦でなかったらしく、今残る旧家の屋根は桟瓦のみであった。しかしそれらの家々の出で立ちはなかなか重厚さを保っている。漁村といった雰囲気ではなく港を中心に商家が建ちならんだ面影が濃い。平入りのものもあるが多くは妻入りで、これは県内山陽側の多くと共通する。両妻にしころ庇を従えた左右対称の妻入町家などを見ていると、海を伝って九州の建築文化が伝播していたのだろうと思わせ興味深い。同じ妻入りの建物でも一つ一つ表情が異なり、町歩きを楽しいものにしてくれる。
 古い家々は国道から一本海側に残され、ほぼその街路に直線的に残る。ここが当時の大通りであり、海に向っては小規模な漁師の家々が軒を接していたと想像できる。
 周囲は周南工業地帯の中心をなす地域で、化学工場が埋立地上に大きく蟠踞し煙突が林立している。ここはそのすぐ目先であるが、海岸線は遠ざかったとはいえかつての町割がよく残され、古い町並が残るところとしてはかなり意外性に満ちているといえるだろう。しかし町並や旧家の貴重さは、地元でもほとんど意識されていないように感じる。連続性こそそれほど高いとはいえないが、質的には高いものが残っている。今後更新が進み古い町の姿が消えるのを防ぐ手段を打ってほしいと願う。








 


訪問日:2004.02.15
2017.03.19再取材
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