久宝寺の郷愁風景

大阪府八尾市<寺内町・商業都市> 地図
 
町並度 5 非俗化度 6 −往時の町並規模の大きさを実感する河内の寺内町−




顕証寺付近の町並
 

 
 河内地方の中心に位置する八尾市は大阪東郊の住宅地として大きく開発され、伝統的な古い町並が残っているというイメージは湧きにくい。市域の西部・久宝寺地区も宅地化されつくした感があり、大規模な工場も立地している。
 しかし古い久宝寺の町は、それら新しい市街地の中に埋もれつつも風化していない。後発的な地域からこの地区に入ると、俄かに街路が狭く交錯し、軒が接した家並となる。その範囲は凡そ東西500m・南北300メートルである。聖徳太子による建立と伝えられる久宝寺は現存しないが、町の南部には顕証寺という大きな寺院があり、その門前辺りにある程度連続した古い町並が残っている。久宝寺はこの顕証寺を中心として一向宗徒が集い、寺内町として発展している。天文期頃には町場としての特権も認められていたようで、二重の濠と土塁で囲われ、六つの入口にはそれぞれ門番が付いていた。
 藩政時代にはこの寺内町を基盤に商業都市として一層の発展を見ている。寺内町内に八尾街道が取込まれていた事も大きく、交通の利便を得て飛躍的に繁栄した。幕末の慶応期には商人・職人の家は167軒もあり、質屋や紺屋・畳屋・醤油屋・鍛冶屋・米屋・瓦屋などその商いも多岐に渡っており、中でも繰綿などの木綿産業が盛んで、久宝寺木綿と称され高い知名度を有していた。
 在郷商業町としての姿は現在も町並として風情を残している。先の顕証寺門前を中心に広い範囲に散在している。多くでは近代的な住宅に建てかわっている中で、頑なに中二階形式の古い町家の姿を残す家々が挟まっている。南北の筋と東西の筋が細かく直交する旧来のままの街路形態で、特に東西方向の街路に古い町家が良く残っているように感じられた。
 この久宝寺の町並は、富田林などに比べると知名度は低く、町家も余り手を加えられていない。古い町並を案内する標識や看板などもない。しかし連続した家並は一部しか残っていない現状を考えるとそれも当然かも知れないし、今後維持されていくかどうかも気にかかる。
 






 






 古い家並はそれほど連続せず散在的ですがその範囲は広く、寺内町から商業町として大きく発展したことを示しています。



訪問日:2003.07.18 TOP 町並INDEX