前沢の郷愁風景

岩手県前沢町【在郷町・宿場町 地図 <奥州市>
 
町並度 5 非俗化度 8 
−城下町と北上川水運を基盤として奥州街道沿いに発展した商業町−





 中世には前沢城が存在していたこの町。前九年及び後三年の役の古戦場ともなり、軍事的な波乱に満ちた時代をくぐった所である。






旧奥州街道沿いに残る七日町の町並 (左下)代表的な太田家住宅付近


 一国一城令により城が廃棄されると、この地を領していた大内氏は奥州街道沿いの町づくりに着手、居館を中心に家臣屋敷を効果的に配置した。この頃から毎月3・7の日に市が開かれるようになり、現在も残る三日市・七日市の地名の由来とされている。
 江戸期を通して仙台藩領であり、蝦夷や陸奥を控えた藩域の北方として政治的に重要なところであり、街道も居館付近で二度直角に曲がる枡形を設置し防衛策をとった。その屈曲は現在でもそのまま現在の道路線形として残っている。
 奥州街道沿いに前沢宿が成立していたが、宿泊地としての顕著な記録は多くないようで、どちらかというと在郷町としての色彩が強いものであったと思われる。この付近の物資の大動脈は北上川の水運であり、この前沢にも地内に二箇所の船着場があって、仙台藩米の積出しを中心に賑わい、河岸は商人の舟屋なども多かったという。周囲の農山村からの物資の取引が盛んに行われ、陸水運の結節点として商業が栄えた町であったのだろう。
 奥州街道沿いには伝統的な建物が比較的良く残っている。妻入りの姿が目立ち、二階部分の立上がりが高い見応えのする旧家もある。中でも枡形の北にある太田家は厳かな邸宅で、塀に囲われた広い庭を持ち、県の有形文化財に指定される旧家だ。明治になって銀行を創立させるなど前沢を代表する商家であった。
 鉄道の開通により水運が廃れても、県下有数の養蚕地帯でもあったことから町の中心でも商家が副業として養蚕業に従事するなどして町は活気を保ち続けた。町の周囲は一面の桑畑や水田であったが、絹織物の需要減少や米の生産調整により肉牛の生産を始め、現在では前沢牛と呼ばれるほどの著名な産地となっており、今や一般的に前沢に対して最もイメージされるところとなっている。
 
 









訪問日:2012.08.15 TOP 町並INDEX