西舞鶴の郷愁風景

京都府舞鶴市<商業都市(城下町・港町)> 地図
 
町並度 5 非俗化度 8 −北前船も寄港した丹後の商業中心地であった−






 廻船問屋が軒を連ねていた高野川沿いの家並(右岸側)。  高野川沿い(右岸側)の町並。奥に見えるのは登録文化財の渡邉家住宅。






高野川沿い(右岸側)の町並  高野川左岸側の町並。ここでも平入り町家が多く残っています。打ち水をする風景に出会いました。


 京都府北部、丹後地方東部の舞鶴市は市街地が東西に大きく分かれ、西舞鶴・東舞鶴と呼び分けられており、JRの駅もそうなっている。ここではその内西舞鶴の町並を紹介したい。
 この町の成立ちは城下町が基盤となっている。丹後東部の中心として田辺城が築かれ、城下町が形成された名残が今でも町割として残っている。城は現在の舞鶴公園の位置にあったが現在は天守閣等は残っておらず一部の遺構があるだけだ。
 藩政時代は城の南側は泥濘ぬかるむ沼沢地、北側は海、城下町は二本の川で遮断され、自然を利用した要害上に町が立地した防衛上抜かりないものであった。
 舞鶴には京都からの街道と東西の若狭街道が交差する港町でもあり、商業が栄えるに申し分ない立地条件であった。深い入江に囲まれた舞鶴湾は波穏やかな良港で、西廻り航路が開設されると多くの貿易船がここを寄港地とした。港の背後地であった高野川河口付近には廻船問屋や商家が集積を極め、舞鶴一の繁栄を見ていた。竹屋町とよばれた一角で、ここの商人は北国との廻船を通じた取引を行い、西に離れた位置に注ぐ由良川の水運をも管理していたという。
 町は廃藩置県時まで城の名を取り田辺と称されていたが、紀伊田辺との混同を避け舞鶴と改称された。丹波亀山が伊勢亀山との混同を避け亀岡と改称された例といい、丹後・丹波は他地域に地名を譲ること多かったのだろうか。
 高野川を基軸として現在でも古い家並が残る。川沿いの風景は妻入り屋根の連続する、古い港町の水際を象徴する眺めとなっているが、その裏側の街路風景は平入り商家風のスタイルとなっていて、その対比がある意味面白い。連続した古い町並景観が残るのはそれほど広範囲ではないが、水辺の風景を核に、風情ある佇まいであった。






 川表側から見ると妻入りのいかにも廻船問屋らしい屋根並がみられます。 高野川沿い(国道より北側)の町並

訪問日:2004.08.13 TOP 町並INDEX