慶長2年(1597)に生駒氏により丸亀城が築かれたが、その後一国一城令により廃棄されている。しかし寛永17年(1640)に山崎家治がこの地一帯に封じられて丸亀藩が成立したことから、山崎氏は城の再建を行った。その後播磨から移ってきた京極氏により天守閣も完成され、以後明治維新まで京極氏による丸亀藩が続いていた。濠端に立つと今でも圧倒されるような高い多層積の石垣で、その比高は約60m、日本一の石垣として有名である。天守閣の位置まで登るだけでも結構な体力を要する。毎日登城するのは大変であったろう。その代り讃岐山脈から瀬戸内の島々まで一望の下で、現在にあっても素晴しい展望台である。高さのみならず扇勾配と呼ばれる上に向うほど垂直に近い積み方がされている。現在濠に囲まれたかつての城域は東西475m、南北356mにも及び、国史跡に指定されている。
生駒氏の時代から徐々に城下町も形成され、武家屋敷は濠の内側に配して、その外側に各地からの移住者を住まわせた。当時は濠が汐入川とよばれる水路で港と結ばれており、その付近を中心に商人町・職人町が計画された。城下町防備のため寺院もひとところに集められ、政治都市としての体裁が大きく整備されていった。
丸亀は讃岐西部第一の都市であった。それは金毘羅参詣の港として栄えたことが大きく寄与している。港には備前をはじめ各地からの客が上陸し、金毘羅街道を伝って琴平へ向っていた。江戸後期には大坂からの定期便も就航している。船待ちなどで丸亀に宿をとる客も多かったのだろう。そんな中で今でも名産となっている団扇は金毘羅参りの土産として珍重されていたもので、下級武士の内職として作られたのが始まりといわれている。幕末から明治にかけて隆盛の極期を迎え、明治初年の記録では綿・干鰯・砂糖・木綿・雑穀・煙草などの商社が合計80社記録されている。
丸亀の町は城を見ながら歩くとまず迷うことは無い。市街地ではどこからでも眼に入り、現在でもその威容を感じることが出来る。そしてその一部に、今でも城下町らしい古い佇まいを見出すことができる。
濠の西側と南側は「番丁」と呼ばれる地区で、かつての武家町である。武家屋敷は他の多くの事例に見られるようにほとんど残っていないが、その精神を継いでか、家並は土塀を配したりして風情があり、また海鼠壁を施した土蔵なども散在する。そして間近には石垣と天守閣が見える。丸亀を象徴する町の風景だ。
またかつての商人町であっただろう名残が、その西側に残っていた。ほぼ一本の通りに沿い展開するのでこれがもしかすると金毘羅街道の起点付近だったのかもしれない。二階部分を黒漆喰に塗りかためられた平入りの町家、造り酒屋などもあり、古い町並としての姿を保っていた。ただ、ほとんどが新しい建物との共存であり、連続した見応えある町並という段階は過去のものになりつつあるようだ。しかし今後の取組によっては、まだまだ町並から城下町時代の雰囲気を訪問者に語り伝える素地は残されている。現在では全く意識されているような気配も感じられないのだが、今からでも決して遅くない。
|
|