松前の郷愁風景

愛媛県松前町【港町・城下町】 地図
町並度 4 非俗化度 8 −城下を基盤にした旺盛な行商力によって発展した町−
 


 松前(まさき)町は松山市の南側に接し、西から伊予鉄道、国道56号線、予讃本線が縦断して松山市とを結び市内との関連性の強い区域が連なっている。
 中世にはここに松前城があった。加藤嘉明が16世紀末に入城した頃は西に伊予灘に面し、他方は沼地帯で重信川の河口に位置しており氾濫も絶えなかったことから、大規模な土木工事をもって治水を行った。それにより松前城は本格的に拡張され、城下町も計画されたが、関ヶ原の役に際して東軍に付いた嘉明は徳川家康に見込まれ6万石から20万石に加増され、より周辺環境の優れた松山に移転することになった。松前の城下町としての期間は短いものに終わっている。 



浜の町並


 松山に城下町が移ってからの松前は一寒漁村となったが、嘉明は城で消費する魚類一切の調達を松前浦の漁民に命じたため、松前の漁家は領内の海域内でどこでも漁を行える特権を得、それは維新後も続いていたという。そのため漁民は豊かな生活を送ることが出来、城下町と同様の賑わいを示していた。
 殊におたたと呼ばれた行商人は松前を象徴するものとされ、京都の大原女のように婦人が魚介類を運搬し松山城下を商圏として売り捌き、それぞれ自活していたという。藩内の販売に対しては税も免除されていたといわれ、松前の商業町としての発展の根幹をなしていた。
 また明治に入ってからも「からつ船」といわれる陶磁器の行商が盛んに行われた。「からつ」とは陶磁器を表す俗称(唐津がその一大産地であったことによる)で、近くの産地・砥部の焼物を種に各地の産物と取引を行い、その販売先は瀬戸内地域をはじめ北九州、山陰、北陸などに拡張された。
 旺盛な行商力を糧にした発展を続け、町は発展した。昭和には繊維産業が誘致され、現在でも基幹産業となっている。
 そのような歴史を持つところであるが、流石に松山の郊外地となっている今では連続した古い町並というほどのものは残っていない。その中で、伊予鉄道の西側に南北に走る県道沿いには所々中二階の歴史を感じさせる建物が残り、一部では二階部に虫籠窓も見られる。この道筋は南に接する郡中港からの街道で、松山城下とを結ぶ道筋だったのだろう。
 工業地帯に隠れた入江の周辺にも面的に連なる旧市街が広がり、所々に伝統的な建物が残っていた。本瓦を葺いたものもあり、また真壁(梁や柱を壁表面に表した壁面)を持つものも散見され、都市化と工業化の只中にありながら辛うじて本来の姿を留めていた。



北黒田の町並




北黒田の町並 浜の町並




浜の町並

訪問日:2010.07.19 TOP 町並INDEX