増毛の郷愁風景

北海道増毛町【港町・漁村】 地図
 町並度 6 非俗化度 5 −北辺の終着駅 鰊漁業の町−




 増毛町は留萌地方の最南部、日本海に面する町で南に聳える暑寒別岳などの山地から幾条もの河川が流れ込んでいるが、ほとんど平野を形成することなく特に南半分では険しい海岸線が続き、長らく陸路が無かった。
 江戸時代松前藩領や幕府領などを経たが、本格的に和人の定住を見るのは幕末期である。天保11(1840)年には当地以北へ群れを追っての鰊漁が許可されたことから、急激に鰊漁場として栄えることになった。また幕府はロシア勢力の南下に対抗して、東北の諸藩に蝦夷地の警衛を命じており、その中で秋田藩は日本海を北上する暖流の影響で比較的冬も温暖な増毛に陣屋を構築している。
 
 
増毛駅前の風景




駅前付近の町並 洋風の建物が特に保存されることもなく自然に残っている


 
 鰊漁業は藩政時代から松前藩による「場所請負制度」
(特定の商人による漁業経営)のもとで行われてきたが、明治2年に開拓使が発足して以来徐々に廃止され、それぞれの漁村の民による自由な漁業が可能となったことで急激に賑わいを増した。漁業での潤いは農業への投資も活発にし、産業全体がこの増毛一帯で盛んになったのである。
 鰊やその加工品は大阪や富山・新潟県などに運ばれ、「上りもの」と呼ばれた。下りの船は日用品や食料品を積んで帰るのである。海岸線には鰊問屋が建ちならび、現在では立場が逆転しているが留萌を凌駕する大きな町だったという。明治33年の記録で1万人を超える人口があった。小樽から定期船も就航し、ここを拠点に沿岸各地に分散していった。北海道北西部の玄関口でもあった。
 そんな増毛の隆盛は、明治の末期までは続いていた。明治43年に深川-留萌間に北海道鉄道留萌線(現JR留萌本線)が開通すると、留萌に近代的な港湾が建設された。後背地の石炭産出の目的も兼ねてのことである。以後、支庁をはじめ官公庁は留萌に移り、増毛の衰微が始まった。それでも鰊の水揚の多かった戦後しばらくまでは賑やかではあったのだが、昭和30年頃から急激に漁獲高が減り、以後は外国から買い付けた鰊の加工業や他の漁業に転換せざるを得なかった。
 北海道では多くのローカル線が廃線となったが、この増毛まで延びている留萌本線は存続している。かつては羽幌線という支線を従えていたのだが、現在は本線とは名ばかりで、単行の気動車が本数も少なく行き来しているだけである。増毛の駅前周辺では、かつて映画の撮影もされていたといわれる。それは多くの、いわゆるレトロな建物が駅前に多く残っているからだろう。駅の正面には、木造三階建の旅館富田屋が圧倒的な存在感をしめし、その隣の角地には木造の古びた店舗が「風待食堂」の看板を掲げて営業中である。これはある意味「出来すぎ」という雰囲気にも感じられるが、決して映画のセットなどではない。海岸に沿って歩いていくと擬洋風の旅館・店舗建築が所々にあり、中でも重要文化財の本間家住宅は、木骨石造という独特の造りを呈する建物でこの町を代表する古い建物だ。明治初期、小樽で呉服屋に勤務していた本間氏は増毛に戻って以後、呉服商の傍ら鰊などの漁業、醸造業や廻船業などさまざまな家業を手掛けた。表通りのこの石造の建物の奥にも複数の木造の伝統的建造物があり、冬以外は一般公開もされている。少し離れた所にある国稀酒造も本間家の興した酒造家であり、我国では最北に位置する造り酒屋として知られる。
 この町の漂わせる雰囲気は独特のものがある。人通りも少ないがらんとした駅前の大通りに感じられる、かつての賑わいの残照。少し外れるとすぐに日本海の寂しい海岸線に出るのも味わい深く、いかにも北辺の港町といった風情である。伝統的な建物の絶対数も多いとはいえないが、周囲の環境も含め町並として高く評価したい。
 古い町並といってもその定義も曖昧だが、造り酒屋同様、この増毛がわが国最北に位置する古い町並であるのではと思う。
 




日本最北の造り酒屋として知られる国稀酒造 町並の先にはすぐ日本海が開けている




旧本間家住宅(重文)

訪問日:2008.01.02 TOP 町並INDEX