松代の郷愁風景

長野市松代町<城下町> 地図
 
町並度 5 非俗化度 5 −真田氏の城下町−




 
石垣と濠が保存される松代城址 町の山手寄りには武家屋敷街の名残を留める町並が見られる。
 

 松代は要害の地を築くのに適した地形だ。長野盆地の南東部、三方を山に囲まれ、西側を千曲川に限られている。中世ここに海津城が築かれ、地名は16世紀半ばの天正年間、織田信長の臣の入城時に武田軍の残党に苦しめられたことから、その復讐を誓って待城と改めたといわれ、その後慶長8年の松平氏入城に伴い松の字を当てはめたという。
 信長の死後は越後上杉氏の支配下となったが、その後複数の領主の転変を経て元和8(1622)に上田から入封してきた真田氏が幕末まで統治した。現在、長野電鉄松代駅の西に石垣が保存されている。小高い所に構えず平地に築く平城としたのは、背後は自然の要害であり、前方に開けた千曲川方面からの敵軍の防衛に主眼を置いたものと思われる。
 真田氏は城の東側を南北に貫通する北国脇往還沿いに町人町を造り、その外側に武家町を同心円状に配置した。町名は故郷上田の町名を移したものが多いといわれる。
 松代藩は10万石を有する信濃一の城下町として栄えたが、廃藩置県後は政府の指示で城が取壊され、長野に県庁が置かれたことで政治の第一線から退いた。国鉄信越本線も松代を通ることなく、現在は長野市内に吸収されてその存在感も薄いものとなっている。
 開発から取り残されたことで、町中には城下町時代を想起させる風景があちこちに残っている。町の中心を東西から南北に走る国道403号線を境に、松代城寄りは旧町人町、その外側が武家街であった。旧武家街であった地区を歩くと、立派な門を構えた敷地の広い屋敷が散見され、格式高い歴史の町との認識を深めてくれる。緩い上り坂となっていることから、これらの武家屋敷から当時は常に城が見渡せていたのだろう。
 市街中心部の町人地では、平入りの町家がある程度のまとまりを持って残る。但しこれらは全て城下町時代のものではなく、明治以降のものと思われる。二階の立上りが高いからだ。近代産業勃興後、ここは製糸業の一大拠点となり、数多くの商家が立ち並んでいた。明治末期を頂点に昭和初期まで続いていたという。それに関連する染色業、刺繍業者も数多く存在した。
 この松代の町は、現在でも山々を背景として、松代城跡を前衛とした一つのまとまりを持った町場というイメージを抱かせる。ここでは町並のみしか紹介できないのが残念だが、数多くの史蹟が今でも存在しており、歴史に造詣のある方なら半日ほどかけてじっくりと巡る価値のある町である。
 
 








旧町人町地区。平入りの漆喰系町家があちこちに残っていた。
訪問日:2006.04.08 TOP 町並INDEX