松山千石の郷愁風景

宮城県松山町<陣屋町・在郷町> 地図  <大崎市>
 
町並度 3 非俗化度 6  −大崎地域南部の政治及び商業の中心であった−




 
松山千石の町並 商家風の建物が連なる一角もある
 

 松山町は東北本線松山町駅から西へ約1kmの所に中心市街地が展開し、町域北部は鳴瀬川で限られ、南部は丘陵地帯となっている。
 古くから政治・軍事上の枢要地で、中世には中心街の南東側の丘陵に千石城が存在した。15世紀初頭に遠藤氏によって建設されたと言われているが定かではない。ここは伊達氏が大崎地区へ侵攻する際の拠点となったところであった。政宗は天正19(1591)年、石川氏にこの松山の地を与えた。その後数氏が入れ替わり、慶長8(1603)年に茂庭氏が西磐井郡赤萩(現一関市)から当地に入った。当氏は幕末まで松山を知行地とし、いわゆる陣屋町を形成し一帯を統治した。明暦3(1657)年には千石城は廃城となったが、足軽町を形成させ、また街道沿いには定期市が開かれ、町家が建ち並んだ。現在地図を見るだけでも、城が構えられた丘と町場の様子が想起されるようだ。城山の麓に南北に貫く街路に沿って、街村的に展開している様子がうかがえる。
 但し実際訪ねると、それらの面影は淡いものだった。商家が連なるという情報も聞き期待を持って訪ねるも、伝統的な建物の連なりはごくわずかで、更地になっている箇所が多く目についた。また残った建物も無住になっているものが目につく。ここ最近の変化のようで、かつての旧市街は空洞化し、周囲に住宅街が移ったか。そんな中に、厳かな門を持った屋敷があり、奥を瞥見すると立派な土蔵と中庭が見えた。この町の商業の栄えを示しているようであった。
 松山は銘酒・一ノ蔵の本拠地で、町並の中には酒ミュージアムと名づけられた商業施設もあり、醸造業も発達し一帯は賑わっていたことと察するが、町並探訪の面ではやや寂しいものとなった。
 








立派な土蔵と中庭を有する邸宅 「一ノ蔵」の酒ミュージアム 


訪問日:2022.07.18 TOP 町並INDEX