射和・中馬町の郷愁風景

三重県松阪市<商業町> 地図
 
町並度 6 非俗化度 6 −水陸の要衝 古くは松坂を凌ぐ商業の中心であった−









射和町の町並



 伊勢湾に流れ下る櫛田川の中流部左岸に展開しているのがここで紹介する射和町・中万町である。
 両者とも旧伊勢国飯野郡に属しており、藩政期の所領は射和が鳥羽藩、中万が津藩であったが川運の発達による商業町としての歴史的性格は共通している。熊野街道の要地であり、松坂の城下町が建設されるまではいわゆる中勢地区の核となるところで、物資の集散地であった。
 射和村は室町末期には既に町割がなされ、大きな集落を形成していたとされる。北西部の山あいに丹生という地があり、水銀の産地であった。射和はその中継地となり櫛田川水運により搬出されたほか、ここで軽粉という加工品が製造され各地と取引された。美容に効果があるとされ、また皮膚病・性病の治療薬などとしても用いられ珍重されていた。伊勢白粉と呼ばれ、同じく名産であった綿布などとともに射和商人と呼ばれる商家があらわれた。彼等は関東や奥州までその商圏を広げるほどの豪商ぶりであった。その内のひとつ富山家をうたった里謡には、
 『伊勢の射和の富山さまは四方白壁八棟造り前は切石切戸の御門 裏は大川 船がつく
とうたわれるほどであった。
 
 また中万村は中世には伊勢の国司であった北畠氏により神山城が築かれており、古くはその城下村として位置づけられていたのかもしれない。江戸期には定期的に市が開かれ、また江戸に出店をするものもあり賑わいを呈していたという。射和村とともに伊勢商人発祥の地の一つとされた。
 全体の印象としては射和町は塀に囲われた邸宅型の豪商宅が織成す風景が印象的で、また中万町では黒板塀の土蔵を中心とした豪農風の邸宅が建ちならんでいる。どちらも裏手は櫛田川が流れ、舟運に依った町であっただろうことは想像に難くない。
 




中万町の町並




中万町の町並

訪問日:2010.10.11 TOP 町並INDEX