早瀬浦の郷愁風景

福井県美浜町<漁村> 地図
町並度 6 非俗化 10 −久々子湖と若狭湾にまたがる漁村集落−
 


 三方五湖は細い水道で若狭湾との海水の往き来があり、汽水域となり実際は入口の狭い内湾といっても良い。周囲の集落も水道を通して若狭湾に漁に出るのを常にしており、波静かな湖側に船溜りがある。
早瀬の町並








 

 早瀬は久々子湖の入口付近を占める集落で、湖と若狭湾の双方に面する。南北朝期からその地名が見えるほど古く、西側にある日向
(ひるが)湖の入口集落である日向と同様に興福寺の支配する浦とされており、以後江戸期まで付近の主要な漁村として栄えていた。漁場を巡って双方が争う場面も幾度かあったが、魚影豊かな若狭湾のこともあり漁獲に恵まれぬことはなかったようだ。畿内や近江方面に行商を行い、商取引により財力を高めるものもあった。
 また明治以降は鍛冶の技術が伝えられ、純粋な漁村から漁工間半ばする集落として活況を呈した。特に大正以降、千歯稲扱機や回転式稲扱機が多く製造され各方面に売り捌かれていった。漁業での収入もあり裕福なものも多く、商家や造り酒屋も立地した。
 町並は自然の地形に従順にカーブした路地に沿って続くが、そのような歴史から漁村の佇まいとはやや異なる家並を見せている。土蔵や平入りの町家建築が見られる。そして一段高い土地には今でも造り酒屋が土蔵を従えて堂々とした姿を見せており、風格を感じさせる。
 久々子湖と若狭湾の間の水道はわずか200m余りであるが、早瀬川と名付けられ川として位置づけられている。江戸期には幅も狭く、岸辺の土砂が崩れやすく湖の排水路としての機能を果すことが出来ず、湖面の上昇を招き水害も多かったのだという。寛文3(1663)年に行方久兵衛が水月湖との水道である浦見川の開鑿と同時に改修を行い、水面が安定したのだという。そのような歴史からこの水道が川と呼ばれ、久々子湖が湖と呼ばれていることが納得できる。

 
  


訪問日:2009.08.15 TOP 町並INDEX