三尾の郷愁風景

和歌山県美浜町【漁村】 地図 
 
町並度 5 非俗化度 8 −漁獲と移民の利益が築いた集落−

       



三尾の町並


 三浜町は御坊市の西側、小半島に町域を持ち東側は日高川の河口付近に達している。
 三尾地区は、半島の先端近くの小さな湾に位置し、僅かな平地と擂鉢上の斜面に家々の密集が見られる。




 

 
 古くからの漁村で三尾浦と呼ばれ、17世紀後半の延宝期の記録では既に緒船29隻を所有していた。和歌山藩の年貢物を収納する蔵もあり(御蔵所)、また半島西端の日の御埼には遠見番所が置かれ、海上物流上の重要なところでもあった。
 耕作地となりえる平地がほとんどないため、ほぼ純粋な漁村として発達した。漁獲物は大坂で三十石船に積替えて京へ送られていた。上方市場と直結して相当量の魚介類が輸送されていたとされ、裕福な漁村であったことが伺える。明治以降も70艘以上の漁船の保有記録があり、大阪湾や播磨灘方面に出漁した。しかし、他県の漁民と漁業権を争う事も多く、紛争も絶えなかったこともあり徐々に衰退していった。
 一方でこの頃から、カナダをはじめとする海外への移民が目立ちはじめる。主に現地で行われていた鮭漁に従事するためで、1900(明治33)年には150名から成る「加奈陀三尾村人会」が結成されたほどであった。そのため移民による労働力の低下もあり基幹産業であった漁業はほぼ壊滅状態となった。但し、漁業をはじめ土木や農園作業により得られる収入は当時の日本の4倍ともいわれ、大量の送金により村は潤っていた。帰国とともに家を新築する村民も多く、それらはカナダの建築様式が取り入れられたものも多かった。この集落がアメリカ村と呼ばれるのはそのためであり、現在もバス停の名前となっている。
 現地の昭和に入り帰国した住民が再び出漁し、三尾漁業会社の設立など規模は小さいながらも再度漁村としての機能を戻している。
 町並の印象からは、特に洋風の建物が目立つといった感じは無い。再度建替えられたか、または取壊されたのか。歩いていると空地が目立つのもやや寂しさを感じさせる。最近になって地内にあった小学校も閉校になったそうで、漁業で賑わいカナダでの収入で潤ったのも遠い昔のように感じるほど、静けさが支配していた。
 ただ密集型漁村集落らしい風情は随所に残り、また本瓦葺の家屋が多く町並としての見所はある。

 
 









訪問日:2015.12.29 TOP 町並INDEX