三河田原の郷愁風景

愛知県田原町<城下町> 地図  <田原市>
 
町並度 4 非俗化度 7  −渥美半島東部の城下町−

 



 
西大浜の町並 「江戸屋」という屋号のある料亭の建物も残っていた 


 渥美半島の東部、豊橋駅前から出る豊橋鉄道渥美線で30分ほど、終点・田原の町に到着する。北は三河湾、南は遠州灘に面し、市街地は三河湾側の入江奥の平地に展開する。
 田原の名は中世前期には見え、平安末期から室町初期にかけ、伊勢神宮の繁栄に伴い窯業が発達していた。文明12(1480)年、この地を支配していた戸田氏は田原城を造成、ここを本拠として半島全体を支配下に入れ、また三河湾の制海権を掌握した。戸田氏支配の約70年の間に城下町も計画され、現在の町の基盤が形成されたという。
 永禄8(1565)年に徳川家康の三河統一で城は徳川氏のものとなり、戦功により本多氏が田原城主となっている。
 豊橋鉄道の駅から西側がかつての城下町にあたる地区で、清谷川の左岸に商業地があり、北側に寺院群があり、北のやや小高いところに田原城址がある。それだけでも城下町として計画された町であることが伝わってくる。但し、多くは現代の住宅や商店に建て替わっており、古い町並と言えるのは西大浜付近の東西の街路と、そこから分かれる新町・本町に向けての南北の筋で、それらも伝統的な家屋が連続した個所は少ない。後者は町場から田原城につながっていた道で、所々に鍵の手状の屈曲が残っている。立てられていた小さな案内板によると、これは曲尺手
(かねんて)と呼ばれた防御の構造である。
 その中にあって比較的密度が高い町並が見られるのが西大浜地区の西側で、「江戸屋」との看板の残る立派な料亭の建物もあるなど、賑わっていた一角のように思えた。家々は城下町時代まで遡るものはなく古くとも大正から昭和初期と思われるものの、北側に連なる寺院群とともに歴史の古い町であることを伝えているようだ。
 
 




新町の町並




東大浜の町並 本町の町並


訪問日:2022.04.09 TOP 町並INDEX