三国湊の郷愁風景

福井県三国町<港町> 地図 <坂井市>
 町並度 7 非俗化度 6 -問屋や商家が建ち並ぶ西廻り航路の重要な拠点-




中心部の街路形態はほとんど港町時代のままで、至る所にこのような古い家々が残っています。





滝谷地区の町並。かつて遊郭として栄えた地区ですが今は面影がありません。




神明地区の町並 南本町の町並
 
 三国町は福井県西北部の日本海岸の町で、東尋坊を町域に含み東に芦原温泉を控え観光資源に満ちた町である。
 しかし町の中心部は全く観光地の雰囲気とは無縁で、古い町並が広域に渡って連なっている。それらは2階部を袖壁と屋根の3辺に囲われたような特色ある外観を持ち、かぐら建てという独特な建て方の家も散見される。これは妻入りの家屋の正面に平入りの軒を組合わせたような構造をしており、斜め前から見ると滑稽ですらある。家々は保存度が良いものは1・2階とも全面格子窓で、漆喰で塗りこめられた塗屋造りはほとんど見られず側面は板葺きの壁となっており、くすんだ木の色の目立つ町並であった。
 この町が古い姿を残しているのは古くから港として長らく栄えたからである。特に江戸期に入ってからは西廻航路が流通の中心として整備され、近在の浦々の中でも特に廻船業が卓越し栄華を極めた。九頭竜川の河口に位置していることから越前全域の米が集積され大阪へと出荷されたという地理的な条件のほか、漆器や紙、絹織物などの産地を控え、それらが全国の消費地に流通するだけの質を持っていたからでもある。また山陰の砂鉄はここで陸揚げされ川を遡り、中流域の鯖江・武生という刃物の町をを生んだ。
 藩は港町を保護する政策を打出し、享保13(1728)年には三国と河野以外の貨物の出入りを禁止した。河口港ということで、常に土砂の堆積があり、千石船といわれた大型商船は沖懸りし、小型船で物資を往復させることを余儀なくされた。それでもこの町が越前随一の発展を見たのは独占的商取引を許容したことが大きく影響したのだろう。往時の絵地図を見ると船持をはじめ様々な商業が立地した一つの都市であったことがわかり、今でも町を歩くと古い看板を掲げた商家を見ることが出来る。
 町は上流側から河口に向け山王、南本町・北本町、神明、滝谷、宿と2km余りに渡り続いている。江戸期には、行政上福井藩領の三国湊と、丸岡藩領の滝谷が対峙しており、利害の衝突もあったといわれる。寛永12(1643)年には福井藩が九頭竜川に入ってくる船を三国港で全て改めを行ったため、滝谷は遊郭だけが繁栄する町となり港は寂れてしまった。今、思案橋という石橋が残っている辺りが境界であった。
 明治後半になり鉄道が開通すると物資輸送は陸路に転換され、港町としての三国は急速にさびれその後漁港として存続した。現在の町を歩いても、賑わいという印象からは遠く、多くでは静けさが支配している。古い家々はそれほど連続して残ってはいないが、それらは規模が大きく質感が感じられ、しかも今でも居住されているものがほとんどであり、没落した旧家のような印象ではない。
 町の背面の小高い丘にはオランダ人技師のデザインによる龍翔小学校の外観を復元した「龍翔館」があり、商船の五分の一の模型や、船箪笥など貴重な遺産が多く展示され、西回り航路、北前船のことが全て学べる施設となっている。その他、三国を代表する廻船業者森田家が創業した「森田銀行」の洋風建築などポイントとなる施設を巡り、可能ならば半日程度かけてじっくりと歩きたいものである。
 
 
 
かぐら建ての家 種々の商業が繁栄したことは古い看板を掲げた商家が多く残っていることからもわかります。看板を探しながら歩くのも楽しい散策です。

訪問日:2003.11.02 TOP 町並INDEX