南部の郷愁風景

和歌山県南部町【在郷町・産業町】 地図 <みなべ町>
町並度 5 非俗化度 9 −梅の名産で知られる町 旧街道沿いに旧家が連なる−
 




北道の町並




南道の町並


 南部は田辺市の西に隣接し、紀伊半島内陸部から流れ下る南部川の下流一帯に平地が開け、市街地が展開している。
 関ヶ原の合戦直後に浅野氏が紀伊国に入国、和歌山藩が成立した。家老安藤氏が田辺城主となると、南部はその支配下に置かれた。南部には2軒の大庄屋が置かれ、南部組として周辺30余村を支配した。
 南部川上流部の村々からの物資の集積地として賑わったほか、中心を熊野街道が通っていたことで人や荷の往来が多く、町場が発展した。
 中でも産業として特筆されるのが梅の栽培である。現在でも南部というと南高梅というイメージが湧くほどだが、その歴史は平安期にまで遡る。その頃の文献にも「梅干」という言葉が見られる。本格的に産業として成立したのは江戸に入ってからで、田辺城主が「藪梅の生えているようなところは不毛の地であるから、税を納めなくともよい」としたため、農民が密かに梅の木を植え、税を逃れようとしたのが始まりといわれる。そのこともあって特産品として取扱われ、「紀伊田辺産」の焼印を押された樽に詰められ、江戸への回漕品にもなった。
 戦後になって南部高校農業科で改良されたことで命名された南高梅は、現在のブランド化を決定付けるものになった。
 南部川河口付近左岸側、紀勢本線と国道42号線に挟まれた辺りが古くからの町の中心で、主に旧紀州街道沿いに古い町並が残っている。河口に近い方から気佐藤、南道、北道と続く。南道・北道あたりが町の中央部で、平入りつし2階の伝統的な建物が散見される。江戸時代に建てられたと思われるような古いものもあり、連続した箇所は少ないものの保存する価値も十分ある旧家である。また、気佐藤地区では街路幅がやや狭まり、町家や洋風の外観をもつ建物が見られるなど、少し異なった町並景観が展開していた。
 




気佐藤の町並

訪問日:2015.12.29 TOP 町並INDEX