中世には和田城が構えられ、ささやかながら城下町も存在していた。統治していた遠山氏は遠山郷の谷一帯を支配し、最盛期には北遠州にもその領域を広げていたといわれる。元亀3(1572)年には武田信玄率いる軍も大挙して秋葉街道を辿り、遠州との国境の険しい峠を控えここでひと時の休息をとったとされている。
元和4(1618)年遠山氏の滅亡後、ここは秋葉神社を詣でる庶民、物資を運ぶ商人などで賑わい宿場町が発達した。秋葉街道が別名塩の道と呼ばれているのは山国信州の村々にとって塩は貴重品で、遠州の塩が盛んに運ばれていたことによる。
和田の町並は伝統的な外観の建物が残り、現在も古い町並を維持している。せがい造りとして、軒を深くした構造の旧家、2階正面に木製の欄干を施したものもある。1階部分は残念ながらほとんどアルミサッシに嵌めかえられており原型そのものではないが、しかしそのことから多くは商店であったことが推定される。
江戸期より林業が基幹産業であったが、明治に入ると王子製紙が付近一帯の山林を買い占めたこともあって、林業に携わる人々、そして旅人や商人により繁華街としても大きく賑わった。そのような名残も少し感じられるような町並であった。
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