三田尻の郷愁風景

山口県防府市【港町】 地図 
 町並度 4 非俗化度 7 −萩藩の港町として重要な役割を果した−
 

旧三田尻御茶屋 右は二階部の座敷


 
防府市街地の一角を占める三田尻地区。現在は港が整備され背後には工業地が展開しているが、その港としての歴史ははるか江戸期にまで遡る。
 天正15(1587)年の『九州道の記』(細川幽斉)という紀行文によれば、「田じまの港にてまりふのうらをみるに網のおほくかけほしてあれば」という記述があり(当時三田尻浦は鞠生浦とも呼ばれた)、漁村であったことがうかがえる。
 関ヶ原の役後に長門・周防二国に封じ込められた毛利輝元は慶長16(1611)年、萩藩は水軍の根拠地の一つとしてここに御船倉を設置、瀬戸内地地域での政治・軍事的拠点とした。港町三田尻の始まりで、萩城下からの街道(萩往還)もここに引き入れ、海路との結節点とした。慶長15年の検地帳では屋敷29、浦屋敷93を数え、既に町場が形成されていたことがわかる。三田尻村の中でも御船倉より西側の区画は三田尻町として町立てされ特別に扱われた。萩往還沿いの5町半余りの街区で、本陣として利用された五十君家をはじめ7軒の酒屋があったという。また本陣とは別に藩主の別荘、迎賓の宿舎として御茶屋も建てられた。
 付近ではまた干拓によって製塩も盛んになり、港町の他にも産業町、商業町として発達した。
 三田尻でまず驚くのが旧御茶屋の建物である。聞く所によると数年前のNHK大河ドラマをきっかけに整備を開始し、現在では公開されているが、それまでは廃屋のようになっていたという。しかも歴史を遡れば塩田の干拓に大きな功績のあった7代藩主重就の隠居場として増築され、三田尻御殿とも呼ばれるほどの規模と質があったという大変な邸宅だったとのことだ。重就の私邸のようになっていたことから、没後に解体されているのだが、それでもこれまで埋もれ続けていたのは誠に惜しまれる。
 檜皮葺(復元)の屋根を持つ外観、内部の座敷群も非常に見応えのあるものであり、これを見るだけでも三田尻の重要性を感じることができる。付近は現在もお茶屋町と呼ばれている。
 旧御茶屋の南側から西に伸びる萩往還沿いには伝統的な建物が幾つか残り、古い町並の風景を形成している。この辺りが町立てされた地区らしく、家々も町家風・商家風の造りとなっている。また県道を挟んだ東側の一部にも醤油醸造所を中心として古い町並の見られる一角がある。
 その付近より東へ200mほどの所が旧御船倉のあったところで、現在でもその遺構が残っており貴重である。当初は直接海に面していたが、塩田開発が進むに連れて水路状になり、石垣に囲まれた入海になった。その名残は現在も感じることができる。






三田尻二丁目の町並 醤油醸造所を中心とした町並が見られる




三田尻本町(旧萩往還沿い)の町並



旧御船倉跡

訪問日:2017.03.19 TOP 町並INDEX