御手洗の郷愁風景

広島県豊町<港町> 地図 <呉市>
 町並度 7 非俗化度 4 −船乗りも住みつくほど遊興色溢れる港町だった−

港より見る御手洗の町並
妻入り町家が連続する一角がある。






町家とともに洋風の建築も散見される。 右は遊女屋であった旧若胡屋の建物


 瀬戸内海の島大崎下島の東岸に開ける御手洗の港は、前方を島々に囲われた波穏やかな地で、風と波に左右された昔の航海者にとっては絶好の風待ち港とされていた。
 瀬戸内海の航路にはかつて地乗り・沖乗りという言葉があり、本土側の島の多い地域を陸伝いに進む前者にかわり、帆の改良などにより沖合を短絡する沖乗り航路を取ることが多くなった。西からの航路では上関から多くが沖家室、津和地、下蒲刈島の三之瀬などと経由していたものが、沖を回ってここ御手洗にじかに寄港するようになり、その後鞆へ向う航路を取ることが多くなった。また、江戸期には日本海から大坂へのいわゆる西廻り航路が開発され、大型の商船が立寄ることも多くなりこの御手洗の港は相当な殷賑を呈していたという。
 当時に藩の事業で建設された波止場も改修されながら保存されており、港に沿って当時の姿が家並としても面影を伝えている。廻船問屋などの商家の建物は、妻入りの外観を持つ非常に奥行の深い母屋が特徴的で、中庭を従えている。そのような家々が連続する一角は重要伝統的建造物群保存地区への選定を受けて改修され、目新しくなっている。古い町並というイメージからは漆喰が朽ちたりしている方が情緒があるのだが、それは隆盛期を過ぎた過去の栄光の町を見ているからで、港町として栄えていた頃はやはりこのように新しかったのだろうと想像し、当時に思いを馳せることとしたい。
 この町で特筆されるのが遊女の存在で、御手洗は遊女により栄えたといっても過言ではない。町には多くの置屋があり彼女らを囲っており、夕刻船が沖に停泊するとオチョロ船と呼ばれた小船で船員を迎えに上った。ある者は船に上って身の回りの世話を行い、また他のものは茶屋で様々な接待を行った。地方出身の少女が多く、また居住環境も悪かったため、性病などに侵される事も多かったようだ。しかし一時は町の人口の何分の一かを占めるほど、遊女の存在は大きい存在となっていた。天候任せであった当時の航海、そしてこの遊興の地の楽しさも相俟って、御手洗で費消してしまい住人になるものまで居たという。現在、唯一若胡屋という置屋が現存し、内部が見学できる。
 大崎下島は西隣の豊島との間に橋が架かっており、さらにその隣の蒲刈島との間にも架橋計画があり、将来本土と陸路で結ばれる可能性が高い。現在は道路交通から隔絶されているから観光客の訪れも少なく、落着いた散策が楽しめるが、やがては訪問者が激増するかもしれない。それに便乗して外来者を歓待するような施設が増えないよう祈りたいところだ。


旧家が修繕・整備される前の2001年当時の町並(※他の画像は2005年11月再訪問時撮影)



訪問日:2001.10.14
(2005.11.13再取材)
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