宮島の郷愁風景

広島県宮島町<社家町・門前町> 地図
 
町並度 5 非俗化度 5
(町並として) −厳島神社の陰に町並もある−




 昔、瀧小路と呼ばれた社家街にある林家。石垣は往時のままで風情ある散策路です。  歴史民俗資料館として公開されている江上家住宅




 東町の町並より五重塔を見る。木工細工を手掛ける昔ながらの構えも多く見られます。 西町の旧家、野坂家。格子が美しいですが下側に鹿対策でガラスが張られているのが少し残念。







 

「誓真釣井」は東町に多く残る共同井戸です。
下はこの町で多彩な形が見られる「持送り」。木工の町を象徴しているようです。
歴史民俗資料館(江上家)付近の町並

 
 
 世界遺産ともなった厳島神社のある宮島は、島全体で一つの自治体をなしている。外からの観光客は、桟橋から土産物屋街を抜け、鳥居をバックに記念撮影し、社殿へ向かうルートが一般的で、現地の方の住まわれる町の家並に触れることはほとんどないと言える。ここでは敢えて、町並としての宮島の姿を紹介したい。
 現在、市街地は五重塔や千畳閣のある「塔の岡」を境に、厳島神社の裏手の山裾に向って開ける西町、桟橋付近より観光客の必ず歩く商店街を含む東町と、大きく二つに分けて呼ばれる。西町は神官の居住地から集落へと発達したより古い歴史を持つ。
 厳島神社の鎮座は推古天皇即位元年の539年、弘法大師による弥山開基が840年であると伝えられるが、島全体が神体と崇められていただけあり、当面の間は社殿、神官や内侍などの住居以外はほとんど存在しなかったようだ。参詣者は船で泊り、鳥居の沖が各地からの船で満たされていたことが想像される。鎌倉時代、二度の火災とそれに伴う再建工事で、造営のために大工・鍛冶・檜皮師等が多数呼寄せられ、一時的に島内に居住したとの記録もあり、その頃から神職達の屋敷の付近に家屋が徐々に建てられて行ったと考えられている。
 戦国時代の天文10(1541)年の「厳島屋敷打渡注文」には、「瀧少(小)路」「中西少路」「中江少路」「有浦」等の小路名、地名が記されており、この頃には既に屋敷が存在することを裏付けている。天文21年には島人以外により島内の店舗、屋敷を建てることが禁止され、厳島の商業活動を保護する政策をとったことが「陶晴賢厳島掟書写」(大願寺文書六五)により伺えるが、これにより社殿周辺には見世棚、屋敷が集中した。安土桃山時代の天正11(1583)年には、毛利輝元により社殿の近辺に新たな屋敷の築造を禁じる条項を含んだ「厳島中掟」を定めていることからも、少なくともこの頃には、現在に近い西町の原型が見られたのだろう。
 社家街としての顔、つまりこの町として最も古い町の姿は今でも大聖院の門前に残っている。神職を務めた林家住宅で、元禄時代の建築といわれ薬医門、庭園なども保存されている。屋敷を囲った高い石垣は今でもそのまま残り、観光客でごった返す地区とはまた違った奥ゆかしさがある。
 回廊の終点の先、水族館へ向う坂道の手前に宮島歴史民俗資料館がある。豪商であった旧江上家を町が譲受け公開しているもので、池を配した中庭を有し、街路に面しては母屋と渡り廊下が巡り、土蔵が展示館として活用される。この辺りの界隈は江戸期に「横町」と呼ばれた地区で、整然とした屋敷割が行われ、古い町並らしい姿が残っている。また、山裾にかけて、二階部が全面格子窓の格式ある古い建物が点在し、それらの軒下には「持送り」が彩を添えている。ここは江戸末期から始まった木彫り彫刻、宮島彫の地であり、その技術を生かしたものなのだろうか。最近建てられたものにも多く備えられ、ひとつの流行となったことがうかがえた。
 東町は西町の発展に伴い、港町として拓かれた町である。西町の贅に対して素ということも出来、土産物屋のひしめく商店街から裏道に入ると、静かなたたずまいが続く。土地が狭いので間口が狭い民家が続き、時に宮島彫や名物杓子の工房が見られる。
 何度か訪れたことのある方は、桟橋からすぐ正面に見える要害山(毛利氏の居城跡、東町・鳥居が見渡せる)に上り、東町の町並を歩き、塔の岡の裏側(トンネル)を抜け、林家のある瀧小路、歴史民俗資料館旧江上家に至る道を辿ることをお勧めしたい。いつもとは違った宮島に出会うことが出来るだろう。 



訪問日:2003.02.09 TOP 町並INDEX