水橋の郷愁風景

富山市水橋【港町・在郷町】 地図
町並度 4 非俗化度 10 −陸海の要衝 北前船の寄港地−
 


 富山市水橋は北陸本線では富山駅から東に二駅隣の駅で、付近はかつて水橋浦と呼ばれる著名な港であった。立山連峰から流れ下る常願寺川と水橋川(白岩川)がこの付近で富山湾に注ぎ、二本の川の間が西水橋、水橋川の東岸は東水橋という通称で呼ばれており、北陸街道と港町の出会うところとして古くから町場化されていた。




水橋の町並


 
主に古い町並が残るのは東水橋地区で、水橋川の河口右岸、細い運河状の水路が伸びている。この付近、かつての船着場であったのかもしれない。付近の街路に平入り、切妻で袖壁の付いたこの地方らしいいでたちの町家が散見される。いずれも二階部分を大きくせり出した外観の「せがい造り」であり、一階部の格子や出格子も保存状態が良く裕福な商人を思わせる。一部には広い屋敷面積を持つ旧家も見られた。伝統的な建物の占める割合は決して多いとは言えないが、洗練されたそれらの町家の外観からは商家として富を貯えた家々であっただろうことを窺い知ることができる。
 北国街道は東水橋から水橋川を加賀藩営の渡船でわたり西水橋に入っていた。一方富山城下に向う街道もここから分岐しており、陸上交通の上でも拠点の位置にあった。
 この町の生業であった廻船業は本格的なもので、安政5(1858)の記録では61艘の廻船を有し、入出津船数は同年には104,幕末の慶応3(1867)年には465艘に達している。100石積以内の小型船が多かったとはいえ年貢米の積出しなど重要な港として機能していた。特に東水橋に廻船業者が多く集積していた。米以外では松前及び奥州から鰊、越後方面から鰤や鰯などの魚肥、油粕などの肥料があり、土佐や長門などからの木材が陸揚げされた。また移出されるものは木綿や薬類、素麺、艾(もぐさ)などであった。町には商取引の多さからさまざまな産業、手工業が集積し、船大工も複数存在した。また越中一帯で盛んだった売薬業は当地でも例外ではなく、これは逆に西水橋のほうが盛んであったようだ。中には売薬商が上得意先に土産として配布していた富山版画を作る版画職人もあったという。
 古い町並として全体を保存するほどの規模ではないにせよ、個の質は高く、幾つかの町家は保存するに値する十分な価値がある。今後に期待したい。
 









訪問日:2008.06.07 TOP 町並INDEX