守口宿の街道風景

大阪府守口市<宿場町> 地図 
 
町並度 5 非俗化度 6 −大都市域に奇跡的に残った旧街道の細長い島−
 







旧街道筋の町並。左右を京阪電鉄と国道1号線に挟まれている。
 

 淀川の東、大阪市に接する守口市は現在では京阪電鉄の沿線となり、また大阪市中心部に達する地下鉄もここまで直通してくるなど、大阪市域の一部ともいえる状況となっている。地下鉄の駅を出れば交通量の多い国道1号線、完全な都市の風景が開けている。
 しかし国道と京阪の線路の間には、奇跡的に残った旧街道の道筋が、古い町並を伴って残っている。
 ここが古い姿を残しているのは、周囲より地盤が堤状に高くなっているからであろう。宅地化されているこの盛土を、都市化にあたり機械的に除去するわけにはいかなかったのだろう。
 この土堤は、はるか昔豊臣秀吉が伏見城と大坂城を結ぶ短絡路として文禄5(1596)年に整備を行った、淀川の河川堤防の形跡である。現在淀川の河川区域はこの位置から500mほど隔てられているが、当時は自然の氾濫原などを含みこの辺りまで流れが押寄せることもあったのだろう。そしてこの堤防上に京街道が伸び、京から大坂に向う時は大坂街道と呼ばれた。この堤防は築かれた年代から文禄堤と呼ばれ、総延長20数キロにも及ぶ大規模なものであった。ほとんどが跡形もなくなっているが、この守口の中心部にこうして明確にその形跡が見て取れることは、驚愕に値する。それはここに当時から宿駅が設置され、揺るぎない町場として破壊が免れてきたことに他ならぬ。江戸期も後半になると、京街道は東海道の一部として認識されていたようで、東海道守口宿という言葉も見える。
 宿駅としてはそれほど大きなものではなく、本陣は1軒あったが脇本陣はなかった。これは大坂から非常に近い位置にあったこと、西国大名の参勤交代時は西宮宿から西国街道に入りほとんど大坂を通ることがなかったこと、京大坂間の交通は淀川の舟運によるところが大きかったことによる。
 この文禄堤は、京阪電鉄の駅前に奇妙な橋が架かっていることで容易にその存在を知ることができる。低平な大阪平野の只中にあって、この細長い地形の突起は極めて異質なものである。そしてこの南北に連なる土地の高まりに沿って、周囲とは一線を画す町家が連なる町並が展開していることは、知らなければさらに滑稽な感を抱かせる。これがまさに旧守口宿の町並である。
 一部ではこの堤に沿っても高層マンションなどが叢生して、その境は曖昧になってはいるものの、格子や虫籠窓などを備えた家々が残り、古い町並として充分なたたずまいを残しているではないか。周囲からまさに島のように取り残され、今に息づく町並である。島としては随分細長いものだが、この旧街道上は車の通行もほとんどなく、犬の散歩道やウォーキングなどに絶好の散歩道になっているようで、歩く人の姿もよく見かけた。古い家並がそうさせているようにも感じる。これは貴重な町の風景だ。町のオアシスともいえるこの街道筋、いつまでも残していってもらいたい。
 

 




所々に堤に上がる坂道があり、一部ではこのように階段になっている。

訪問日:2006.04.29 TOP 町並INDEX