茂田井宿の街道風景

長野県立科町・佐久市<宿場町> 地図
 
町並度 7 非俗化度 8 −造り酒屋と坂道が町並の風情を醸し出す−
 



茂田井の武重酒造付近の町並




武重酒造付近の町並 坂の途中にある大沢酒造の土蔵群
 
 


 中山道は江戸期には大名行列等の大通行が多く、小さな宿場では裁ききれないため、所々に間の宿と呼ばれる補助的な宿場町を設けていた。この茂田井もその一つである。
 古くは毛田井・甕とも記され、もともと両隣の望月・芦田宿の助郷として指定されていたが、その後宿泊業務も行うようになり宿駅としての機能が確定した。例を示すと、文久元(1861)年和宮下向による2万6,000人もの大行列の際、ここが下宿となり、また元治元(1864)年にいわゆる天狗党と呼ばれた水戸浪士の通過に対する警備のため、小諸藩士500人がここに宿泊している。
 家屋の数は当時望月・芦田宿を凌いでおり、それは土地と水に恵まれ、良質米が産出されたことにもよるのだろう。米は小諸藩代々の上納米とされ江戸藩邸に送られていたというし、清い水は酒造業を発達させた。
 山地との間に開けた小さな谷間に沿い、旧街道が見事なまでに残されていた。やはり間の宿であるだけあって、道幅は乗用車の離合が困難なほど狭い。本宿の町並とは趣が随分異なる。そして望月方ほど土地は低く、芦田方ほど高くなっており、町並の東部と西端では急坂となっていた。特に東側の坂道付近には、堂々とした門を従えた伝統的な造り酒屋が二軒ほど残り、風情ある古い町並を形成していた。
 東側の武重酒造は慶応元(1865)年創業、西に続く大沢酒造は元禄2(1689)年創業と歴史深く、堂々とした構えだ。大沢家は代々茂田井村の庄屋を勤めた名家で、街道に面して大小の漆喰土蔵、長屋門風の入口を構える。内部は善光寺秘蔵酒と呼ばれる各酒が試飲でき、また茂田井の歴史を紹介する資料館も併設されていた。私はここで酒を買って帰ったが、辛口でさっぱりとした、冷酒向きの美味い酒であった。
 歌人若山牧水が、「人の世に楽しみ多し しかれども酒なしにして 何のたのしみ」という歌を残し、武重酒造前に歌碑が立つ。中山道時代からこの町は酒どころとして、旅人の楽しみの一つとなっていたに違いない。
 町家は江戸期にまで遡るような古い物はほとんど残っていないようであったが、端正な格子が保存された平入りの家屋、所々に残る素朴な土蔵など、宿場町というより街道上の豊かな農村集落という印象であった。遠くに望める浅間山の姿が、信濃路の風情を一層高めてくれるようであった。
 
 




街道からは浅間山が望まれ、厳かな門を従えた邸、土蔵が所々に残る。



西端の坂より町並を見る

訪問日:2006.04.09 TOP 町並INDEX