本山・洗馬宿の街道風景

長野県塩尻市<宿場町> 地図(本山)地図(洗馬) 
−善光寺街道を分ける中山道信濃路最西端の宿場町−
 
町並度 6 非俗化度 8
 

   
 本山宿の家並は出梁造りの町家が屋根のラインを揃え、統一感のある町並です。
 

 本山の名は、宿場としてよりもそば切り発祥の地としての方が一般的には良く知られている。しかし町中には宿場らしい家並が今でもいい雰囲気を残している。出梁造り
(またはせがい造り 軒に腕木を大きく突出し軒下空間を広げた造り)の町家が連続した景観はなかなか見応えがあり、街路を斜にして構える形も街道集落らしい眺めである。
 慶長7年五街道の一つとして中山道が位置づけられた時には塩尻は通らず、小野宿(辰野町)から贄川宿(楢川村)に達していた。しかし同12年(1613)年にこの地域の支配者であった大久保長安の死去により、この本山を通る新道が開かれている。
 ここは京都に向う旅人にとって木曾路の入口に当たる宿駅であった。地形的にも盆地が狭まり両側から険しい山々が迫りつつあるのがわかる。里でありながら山の嵐気に包まれた雰囲気がある。
 そのような地形から耕地も少ないので宿業に携わる住民が多く、産業は山稼ぎや大工等であった。江戸方から上町・中町・下町と呼ばれ、京方には松本藩の築いた口留番所があった。木曽路への入口であったことから重要な位置にあった番所である。穀物の出荷時期には藩の足軽2名が常時詰め、厳重な見張りを行っていたといわれる。
 本山には連続した古い町並が残っているのに、木曽路の各宿場に比べると地味な印象である。町中には外来客に対しての案内板一つない。しかし一方開放的な雰囲気が漂うのは、街路が広いからであろう。各家には表札と並んで屋号の木札が貼られ、伝統を大事にしようという思いが伝わってくる。
 本山宿の一つ江戸寄りの洗馬宿は、南下して美濃へ向う中山道と別れ、北上して善光寺門前に至っていた街道が分岐していた。宿駅の面影を感じさせる家並は多くは残っていないが追分は今でも車道に踏襲され、「右中山道 左北国往還、善光寺道」と彫られた道標も良く保存されていた。
 




本山宿の町並




宿の北端近くにある出格子がきれいに保存された旧家 洗馬宿の町並



洗馬宿の北には善光寺街道との追分が今でも現役です。


訪問日:2004.05.30 TOP 町並INDEX