室積の郷愁風景

山口県光市<港町> 地図
 町並度 4 非俗化度 6 −海商通りは北前船の寄港で賑わいを見せた−
 


 光市街地の東外れにある室積地区。ここは函館などと同じく陸から近い小島に海流による土砂の堆積で陸続きになった、「陸繋島」上に町が開けている。この波静かな入江は、当然のように港町として古くから開けていた。
室積の町並




突当りは札の辻であった




 
 室積の名が初めて文書に現れるのは12世紀で、その頃は普賢寺の門前町としての性格が強かった。この寺は1006年の建築、本尊は漁師によって海から引き上げられたという伝説がある。境内は広く門構えも相当な規模で、この寺の存在だけでもこの町がただ事でない深い歴史の上に成立している事がわかる。
 ここの海商人はなかなか勇敢で、室町にかけ、朝鮮半島を狙った海賊的集団「倭寇」にも、この室積出身者が加わっていたという説がある。
 この町が最も栄えたのは江戸期になり、物資の輸送が飛躍的に増大し、日本海経由大坂までのまでの商船航路が開設されてからである。この北前船は、各地の伝統文化をこの地に導いた。かつてより周防国一の漁業権を持っていたが、それが不振に陥ると、藩はここと中関(防府市)、伊崎(下関市)を北前船を受け入れる重要な港町として整備し、藩内各地の蔵を移築、増設し、年貢米を大坂の相場を見て売りさばいた。最盛期にはここに12軒の問屋、80軒の商家があったという。
 明治時代に入っても郡役所などが置かれ、地域の中心としての役割は続くが、明治30年に山陽鉄道が開通すると、町の中心は現在の光市中心部に移って行き、工業も周辺に立地して室積は衰微の道を辿って行った。
 現在町を歩いても、廻船がひしめいていた湾はおろか、海商通りと呼ばれるメイン通りからも、その頃の賑わいは伺うべくもない、静かな家並が続いている。古い商家も台風被害などで建替えを余儀なくされて、古い町並としての現存度は低い。しかしそれでも、市はこの貴重な歴史を風化させまいと、景観にあった改築に限り、補助を出しているという。近年になって改築されたらしい新しい格子がはまった家も何軒かあり、その一部は店舗として開放されている。また、ただ一軒だけ残った醤油商の旧家、磯部家は資料館として、北前船の資料、麹室などが開放され訪問の価値ありである。
 海商通りからは民家の間から港が見え隠れし、町並の北端付近には今でも醤油商が一軒、頑なに営業を続けていた。所々に残る古い建物は、漆喰塗り込めの妻入りが多く、九州でよく見られる両端で小さな軒を持ち上げた構えもみられた。海を伝って九州的な建築文化が伝わったのだろうか。興味深いところである。
訪問日:2002.09.08
2013.03.24再取材
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